しかしながら、実は、この『戦史叢書 海軍航空概史』の記述には、典拠となる史料も証言も付せられておらず、真偽を検討することができない。また、管見のかぎり、空母よりも戦艦への攻撃を優先するという指示は、他の史資料では確認されないのだ。よって、山本が真珠湾攻撃で戦艦を主敵と認識していたかどうかについては、今後の研究の進展に期待し、判断を留保することにしたい。
第二撃に繰り出さなかったのはなぜか?
続いて、戦略、作戦、戦術の三つの次元すべてが関わる問題、第二撃は可能だったかという問題を検討しよう。真珠湾攻撃の衝撃から醒めるとともに、米海軍当局は、とほうもない災厄ではあったけれども、自分たちが不幸中の幸いともいうべきツキにめぐまれていたことに気づいた。真珠湾の海軍工廠や燃料タンクは無傷だったのである。それらが健在なら、空母を含む残存艦船を縦横に動かし、日本の攻勢に対応することができる。彼らは喜び、ついで、いぶかしんだ。日本軍は何故、第二撃を繰り出して、工廠と燃料タンクを破壊し、真珠湾の軍港としての機能を奪わなかったのか。とどめを刺すのを怠ったのは、致命的な失策ではなかったか?
そうした声は、中立国を通じて日本にも伝わり、ハワイ作戦は不徹底だった、小成に甘んじたという批判の伏流となった。戦後、それが顕在化し、山本批判の根拠の一つとされたのだ。
背景に山本と軍令部の温度差
この問題を考える際に、しばしば指摘されるのは、山本と軍令部・機動部隊のあいだに存在していた温度差である。山本は、「戦備訓練作戦方針等の件覚」に記されているように、「開戦劈頭敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救うべからざる程度に、其の志気を沮喪せしむること」を企図していた。一方、11月7日、永野軍令部総長が指示した「対米英蘭戦争帝国海軍作戦方針」には、「第一航空艦隊を基幹とする部隊を以て、開戦劈頭、布哇所在敵艦隊を奇襲し、其の勢力を減殺するに努む」とあるのみで、山本の覚書に比べると、撃滅の覚悟はかなりトーンダウンしている。当時、軍令部第一部長であった福留繁は、戦後の回想で、「もし南方作戦たけなわで、全海軍を広範な地域に分散している時期に、その側背を衝かれるようなことがあっては大変であるから、その最悪の事態を予防しながら南方作戦を遂行してゆこうというのが真珠湾の攻撃だったのだ」という理解を提示している(福留繁『史観眞珠湾攻撃』)。