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沈没船探偵の出番

 これまで多くの沈没船遺跡で水中調査をしてきた私は、同僚の水中考古学者達から沈没船遺跡の「査定」を頼まれる機会が増えていた。

 これはテキサスA&M大学で多くの時代の船の構造を学び、沈没船復元再構築の講義のアシスタントとして様々な沈没船の船型図を頭に叩き込んでいたおかげだ。さらに大学院卒業後、幸運なことに世界各地で52隻の沈没船の学術的調査に参加した。もちろん数が多ければいいというものではないが、次第に沈没船がどのように海底に沈み、埋まっているか、一目見るだけで理解できるようになっていた。

 コスタリカでの仕事でも、ここが私の船舶考古学者としての腕の見せ所なのである。

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 プロジェクト最終日、今回の成果を地元の研究者達と学生達に報告するために、私達はカウイータの隣町に住むコスタリカ人メンバーの自宅に集まった。彼らとしては、私が作った「散乱しているレンガのデジタル3Dモデルを見てみたい」程度のものだったかもしれないが、私はこの2隻の沈没船遺跡に潜って自らの眼で見た時から、ある仮説を立てていた。それをお披露目する機会となった。

 リラックスした雰囲気の中、この沈没船遺跡に関する説明を始めた。

 デンマークに残っている歴史記録によると、クリスチャニス・クインタス号とフレデリカス・クインタス号にはそれぞれ24門の大砲が積まれているはずだった。しかし、ブリック・サイトには恐らく2門、キャノン・サイトに最大でも14門の大砲しか沈んでいない。沈没船遺跡と、記録で数が合わない。

 そのため、以前にカウイータで調査していたアメリカ人水中考古学者の間では、この2つの遺跡は小型の1隻の帆船の遺跡で、沈没の際に甲板が崩壊し、船底部だけブリック・サイトとして残り、甲板より上部は今のキャノン・サイトまで流されて沈んだのではないかという仮説も出ていた。

 そんなことは、あり得ない。

 木造船は、フレームがあばら骨のように船全体の形を作っている。そのため、右舷と左舷の間で船体が縦に割れることはあっても、船体下部と上部の間に亀裂が入りバラバラになるなどということは、ほとんど起きない。

 また、船という構造物は船体内部が空洞になっていることにより、中の空気と外の水の重量の違いが発生し浮力となるので、大砲や積み荷などの重たい物も輸送できる。もし、船が上下に割れ、船体上部だけが筏のように浮くだけの状態になってしまったら、重い大砲を14門も乗せたまま800mも移動することはない。その場ですぐに沈むだろう。

 カウイータ湾の2カ所の遺跡は紛れもなく2隻の船である。

 では何故、大砲や錨の数が資料に記されている数よりも少ないのだろうか?

 それは、海底に沈んだ大砲と錨が、何者かによって引き上げられたからである。

 当時もヨーロッパから新世界に運ばれた積み荷は大変貴重だった。これにはもちろん大砲や錨も含まれる。沈没から時間が経っていなければ、近くの砂浜に大量に木材が打ち上げられたり、海中からマストなどの船体の一部が水面に見えていたりして、他の船からも沈没船は見つけやすかっただろう。

 2隻の船が沈没してから数週間以内には、沈没船内に残された積み荷を狙った他のヨーロッパ諸国の帆船によって、引き上げ作業が行われたはずだ。

 そもそもクリスチャニス・クインタス号とフレデリカス・クインタス号に乗っていたデンマーク人の船員は、遭難地点の近くから他国の船に乗りパナマへ移動し、そこからセント・トーマス島に向かっている。恐らく2隻の沈没船の位置情報は、デンマーク船員や、この2隻から解放された奴隷により、ヨーロッパの他国にも漏れていたであろう。それに、このような横取り目当ての引き上げ作業が多かったからこそ、デンマーク人船員達は、2隻をわざわざ破壊してからその場を離れたのだ。