大砲はどうやって積み込まれた?
ただ、当時の大砲1門の重量はゆうに1トンを超える。つまり潜水のできる船員や、船の甲板からロープで直接持ち上げる方法による大砲の引き上げは不可能である。
では、当時の西洋帆船は海中に沈んだ大砲や重い積み荷を、どう積み込んだのだろうか?
実は、帆船に備わっている装備をフル活用することで、引き上げは可能となるのだ!
船には、帆を掛ける棒がある。「ヤード」と言うのだが、帆の上部をヤードに引っ掛け、パンッと帆を張る。帆を使わない時には、畳んで紐でヤードに結び付けておく。航海中は、風向きを読んでヤードの向きを変えることで、帆の向きを変える。
このヤードの先に、滑車を取り付けてみよう。すると船そのものが「クレーン車」に様変わりするのだ。海底から大砲を引き上げる時には、海の方にヤードを向け、紐を海の中に垂らし、大砲に巻き付けたら、甲板にいる船員達が滑車に通した紐を引っ張るのだ。滑車を経由すれば、荷物の重さは半分になる。大砲を引き上げることも可能だ。
つまり、西洋帆船を沈没船遺跡の直上に移動させ、こうした装備を利用すれば、海底に残された沈没船の積み荷を引き上げることが可能となる。
ただこれには1つ問題がある。海底の大砲や錨の引き上げ作業が行える西洋帆船はある程度の大きさがあるので、浅瀬には近づけないのだ。
それに照らし合わせて考えてみると、ブリック・サイトはそもそも水深が10m以上ある。こちらは当時の帆船でも十分近づけたはずだ。だから、ブリック・サイトからはほぼ全ての大砲と錨は持ち去られたと考えるのが妥当だ。キャノン・サイトの方は、海底に残された14門の大砲は、全てが水深5mに満たない浅い場所から見つかった。
言い換えれば、水深5mより深い場所にあった大砲は全て引き上げられ、持ち去られてしまったのだ。
これで、海底にある大砲の数が少ないということの説明が付く。
さらに残る謎はキャノン・サイトから、50m離れたところに残されていた全長1.5mの錨だ。この地点の水深は2mしかない。このサイズの錨を積んでいた帆船が行こうとしても、水深が浅すぎて座礁の危険性がある。
つまり、船の誰かがわざわざ小型船に乗って錨を運んで降ろしたことになる。
当時の帆船は通常4本の大型の錨を乗せていた。少ない場合でも2本の錨は必ずあったはずだ。錨は車で言うところのブレーキに当たり、錨を積んでいない船などありえない。
船をその場にしっかりと留めておくため係留は2本の錨を使うことが多い。船の船首の右舷と左舷からそれぞれの方向に錨を降ろし、錨のケーブルを巻き上げてピンッと張ることにより、船を2本の錨の中央地点に停泊させることができるのだ。
しかし、今回、錨は1本しか見つかっていない。その錨と海底に残された大砲の位置から船体のあった場所を推測すると、もう1本の錨は沖の方に離れた位置に降ろしていたはずだが、見当たらない。