海堂版ゲバラの革新性 一人称小説は世界初の試み
海堂 一つ言えるのは、キューバの人も、日本人も、「チェの心」だけは忘れてはいけないということです。それは何かといえば、一言では語れずに、すでに二冊も、書いているのですが(笑)。ゲバラという存在は、いつの世も、支配者にとって煙たい存在です。ゲバラのような人物が風化していく社会は、支配層の思うツボなんです。
阪本 まさにそう思います。私の場合、映画はフィクションですから、関連資料を読みつつ、私が思う「チェ・ゲバラ」を撮ろうと思っていた。「もし僕がチェ・ゲバラだったら」などと大胆なことを考えながら作っている部分もあって、それが今この時代の日本人に伝えたいことと重なればいい、と思っています。
海堂 映画の中で、フレディがゲバラに「どうしてそんなに強いんですか」と問いかける場面があって、ゲバラは「強くはない。怒っているだけだ」と答えたのが印象的でした。
阪本 「憎しみから始まる戦いは勝てない」というゲバラのセリフは、僕の創作で、この言葉をチェの口から言わせたかった。憎しみは他人に伝わらず、自分の中に蓄積していくだけで、その結果、相手だけじゃなくて、その家族さえ殺しかねない。一方で、怒りは「てめえ、この野郎」と伝えることができる。怒りからは、コミュニケーションが生まれるんです。
海堂 なるほど。その発想は私にはなかったですね。私が『ポーラースター』で書いているゲバラは、今のところ、スチャラカで、青臭いお兄ちゃんですから。
阪本 “海堂ゲバラ”は、賢さと幼さが同居している。その幼さこそが強さ。チェはずっと思春期を続けているような感じですよね。
『ポーラースター』の魅力の一つは、ゲバラの一人称の小説であることです。これは映画と正反対で、チェが見てきたものを一緒に経験していく感じが、新鮮でしたね。『ゲバラ漂流』では、中南米を支配するユナイテッド・フルーツ社の幹部の妻に恋をしたり、ゲバラは揺れ動きながら、何かを見つけていく。今回の小説では、どうしてゲバラの一人称を選んだのですか?
海堂 小説を書くときに、一人称か三人称かという選択肢がありますが、そのあたりは直観ですね。この後、週刊文春で、フィデル・カストロを描くのですが、この小説は三人称で書こうとおもっています。
阪本 チェ・ゲバラに関しての書籍は数多く出ていますが、一人称でゲバラを描いた本は世界で初めてだと思いますよ。
海堂 それを聞くと恐ろしくなってきました(笑)。
阪本 一人称ということは、海堂さんがゲバラに成り代っている感じなのでしょうか?
海堂 成り代るというよりも、人形劇の人形に憑依しているという感覚が近いでしょうか。監督は、「ゲバラに、ご自分の言いたいことを語らせた」ということでしたが、それは実際に、イタコのように演じてくれる俳優がいるからこそ、できるんだと思います。小説だと、そこにワンクッションあるんですね。原稿を書いて編集者に渡し、ゲラになって、客観的に読み返す。雑然としたものを削り、純化させていく過程で、登場人物が私の本意じゃないことを、語りだすこともありますから。
阪本 海堂さんの意志を離れて、登場人物が動き出すんですね。
海堂 そうですね。ゲバラはこの先、「頑なになっていく」という感触があったのですが、今日、阪本監督のお話を伺って、「怒り」といういいヒントをいただきました。