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――とはいえ公式戦ほどではないから、始まってしばらくは雑談のようなものがあったと聞いています。

飯島 ええ、たいていは「次の対局はいつでしたか」みたいな感じです。その流れで村山が私に「叡王戦どうされましたか?」と。

――ところがその1月ほど前に、飯島さんは村山さんに叡王戦で負かされていた。

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飯島 そうなんですよ。思わず「あんたあんた」と返すと、「ああっ!?」とね。隣では深浦さんが「ブッ」と噴き出していました。そりゃ笑うしかないでしょうね。

 

――情景が目に浮かびます。

飯島 そのことをニコ生でしゃべったら大受けしたようで、ドワンゴさんも乗っちゃって、ついには大晦日の“因縁対決”という企画までできてしまって。

――取材にうかがったので覚えています。

飯島 今だから言うんですけど、完全に出来レースなんですよね。リハーサルでカメラを向けられた時に「ここで怒ってください」と言われたことも。最後のセリフが「すべての決着をつけることが出来ました」。全部台本です。

――(笑)。

飯島 あの事件の後、村山が謝ってくるので「注目を浴びるならいいじゃない」と言ったら「ああ、そんなもんですか」と。

 僕が棋士になったころの動画中継と言ったら、NHKさんと囲碁将棋チャンネルさんくらいでしょうか。テレ東さんの早指し選手権は棋士になって間もなくなくなってしまいましたし。もうマジメ一辺倒で演出などはありません。そもそも当時はペーペーの棋士が動画中継に出ることなんてほとんどなかったんです。対局以外の仕事と言えば、ほとんど指導対局ですよ。

――潮目が変わり始めたのが、ニコニコ動画の中継が始まったあたりでしょうね。

飯島 多分、僕らの世代が将棋界におけるアナログとデジタルの移り変わりを体感した最後の世代なんじゃないかと。今のようなタブレットもなく、記録係は全部手書きで棋譜を書いていましたしね。

木村一基九段は自分にとって「希望」

――今日も掛け軸が飾られていますが、飯島さんが木村九段を尊敬しているのは特に知られているところです。そもそもきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

 

飯島 初めて声をかけてもらってからもう23年で、師匠よりもお会いする頻度は多いですね。木村先生の記録係を務めた時、感想戦で思わず手を言ってしまったんです。それが突拍子もない手だったから、かえって木村先生の記憶に残ったようですね。間もなく自宅に電話があって「今度将棋を指しませんか?」と。

 あと、当時は千駄ヶ谷の会館を中心に(東京都の)「西の人」「東の人」という分け方があって、東の人が少なかったことも親しくなれた要因の一つではないかと思います。その電話から間もなく、僕は四段昇段で、木村先生は8割勝って、お互いに切磋琢磨です。木村先生以上に絆がある人は人生で出会わないでしょう。弟子の高野君(智史五段)がうらやましいですね。