なかでも、中国外交部の女性報道局長の華春瑩は、強硬な言説にそぐわぬ愛嬌のある容姿ゆえか、日本でも知名度が高い。彼女の個人情報を暴露したのは『シナウィキ』の元編集者で、現在は北米の某国に住む21歳の青年・李恩杰(仮名)である。筆者の電話取材に応じた彼は話す。
「華春瑩については、自宅の住所と家族構成、さらに個人で使用しているEメールの通信内容が判明した。彼女は外交部に勤務しているにもかかわらず、英語のレベルはかなり低い。子どもの宿題を代わりに解いたときの解答を見ると、中学生レベルの文法をかなり間違えている」
裏取りが難しい話とはいえ、現在も閲覧できる悪俗圏系のサイトには、華春瑩や夫・娘らの身分証番号や携帯電話番号・職場・住所などの情報が書き込まれているものがある。それらの内容の一部は李恩杰の証言と符合する。華春瑩はドキシング被害をすでに警察に通報済みだという。
20世紀の遺物が中国監視社会のキーだった
悪俗圏によるドキシングの鍵は、中国人のほぼ全員が持つ18桁の身分証番号だ。移動や経済活動の履歴、顔認証機能などのあらゆる情報に紐付いた「超」重要な個人情報にもかかわらず、番号のしくみは驚くほど粗雑。第三者からも容易に特定が可能であることが、一連の事態の背景にある。
中国らしからぬ──。いや、むしろ非常に中国らしい。この巨大なセキュリティの穴が生まれた理由は、おそらく現在の中国の身分証番号制度が、ネット時代以前の1990年代末に整えられたことが関係している。
20世紀末の時点では、中国はハイテク金持ち国家どころか、1人あたりGDPがわずか873ドルほど(同年の日本は約3万6026ドル)の典型的な後進国だった。約12.5億人の国民のうち、インターネットの利用者はたった670万人。個人情報保護やサイバーセキュリティの概念を知る人など皆無に近い、おおらかな時代である。
中国人民の身分証にICチップが埋め込まれ、ある程度の電子管理がなされはじめたのは2003年からだ(第二代身分証)。いずれにせよ、20年後の自国が巨大なサイバー監視社会に成長することなど誰も予測しておらず、第三者が身分証番号を取得するリスクも、ほとんど意識されていなかった。
デジタル分野における近年の中国の急速な発展は、しばしば「リープ・フロッグ」(カエルの跳躍)の典型例として語られる。これは基礎的なインフラが整備されていない後進国が、新技術の導入によって、通常の段階的な進化を飛び越え一気に最先端に到達する現象だ。
怜悧なS級デジタルレーニン主義大国と、末端の警官が二束三文のカネで国家指導者の個人情報を売り飛ばすダメ国家──。現代中国の極端な二面性は、昨今のハイテク化と監視社会化が、スマホが普及した2010年代なかば以降に急速にもたらされたがゆえの巨大な「ひずみ」なのだ。
悪俗圏によるドキシング行為は、そんな中国のエラー部分を白日のもとにさらしてしまった事件なのである。
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本記事に掲載しきれなかった情報の数々は、現在発売中の「文藝春秋」8月号および「文藝春秋 電子版」掲載の「『習近平の個人情報』を盗んだ男たち」(安田峰俊)をご覧ください。
「習近平の個人情報」を盗んだ男たち