20歳のとき、電車の事故で、両足と利き手の計3本を失った山田千紘さん。現在29歳、会社員として働く一方で、昨年7月にYouTubeチャンネル「山田千紘 ちーチャンネル」を開設。明るく前向きに生きる山田さんの配信は共感を呼び、今年に入ってチャンネル登録者数は10万人を超えた。しかし人気チャンネルになったがゆえに「何のために発信するのか」という葛藤に悩んだ時期もあった。
壮絶な事故からの復活、そしてユーチューバーとなってからの葛藤も綴った山田さん初めての著書『線路は続くよどこまでも』。刊行直前、山田さんにインタビューした。(全2回の2回め/前編を読む)
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自殺を止め、支えてくれた兄や友人
「社会は僕を必要とはしていない」。そう思った。
国が、社会が、僕に「死ね」と言っているとしか思えなかった。
僕は夜になるのを待って、リハビリテーションセンターのサッカーコートに行った。サッカーゴールの枠にひもをかけようとしたそのとき、携帯電話が鳴った。
兄からだった。
僕は号泣することしかできず、絞り出すように「ごめん」と言った。
状況を察した兄は、「ふざけんな!!」と叫んだ。
激高する兄の声を、僕はそのとき初めて聞いた。
(山田千紘著『線路は続くよどこまでも』より)
手足3本を失った事故直後、初めに病院に駆けつけたのはお兄さんだった。病室に泊まり込み、泣き崩れる両親を支え、3本の手足を葬るため葬儀屋の手配もしてくれた。その後、社会復帰がうまくいかずに悩んだ山田さんが自殺を試みようとした際、止めてくれたのもお兄さんだった。
事故以降、家族や友だちに支えられることで心を新たにし、残された体の機能を駆使して生活を取り戻していった日々を振り返る自伝本『線路は続くよどこまでも』。ここには山田さんの、家族や友だちへの熱い思いも綴られている。
――お兄さんは、今は東京にいらっしゃるんですか?
山田 東京ではなく隣県に住んでいますね。近くです。
――山田さんご自身はずっと東京に?
山田 保育園の年中までは、川崎のばあちゃんちに住んでました。それ以降はずっと東京に。中学生から、自分の通う中学だけじゃなくて、区をまたいでいろんな友だちがいました。
――アルバイトでも交友関係が広がっていそうですね。
山田 高校の頃もかなり働いていたので、バイト先にも一緒に過ごす友だちがいました。売り上げを気にして、管理や仕込みもやって、最後のレジ締めまでやって、高校生にしてはかなりの時給をもらえていたんで、働いた達成感がありましたね。