「あんた誰よ。東大のセンセイがなんだっていうの」
もう一つは、アンさん自身が赤塚たちに語った話だ。
糸川はいつも強気で、開発の邪魔になる科学技術庁の役人たちを大会議で罵倒することもいとわなかった。そのために多くの敵を抱え、ラムダロケットの打ち上げに2度失敗すると、研究費の使い方にも疑義がある、と新聞や雑誌に批判され、教授会で足を引っ張られた。
そのころ、アンさんは夫や子供もおり、生活のために新橋界隈のカフェやバーに勤めていた。
銀座で働いていたという説もある。いずれにせよ、美容室を始める前のことである。その店に糸川が取り巻きと一緒にやって来て、彼女がその席に付いた。
「この人、東京大学の糸川先生ですよ」と取り巻きが言うと、「それがどうしたの」と彼女は乱暴に言い返した。気風のいい物言いが気になったのか、それともふっさりとした黒髪に惹かれたのか、糸川が口を開いた。
「君は僕のことを知らないのか?」
「あんた誰よ。東大のセンセイがなんだっていうの」
ずぶりと刺す言葉は、天才と呼ばれ、ちやほやされていた糸川には衝撃だったらしい。
「東大ってたいしたことないのか。そうか、たいしたことないんだ」
と漏らした。あとで、糸川自身も「あれですごくスッキリした」と言っていたという。
少し出来過ぎた話に聞こえるが、彼女が権威に媚びず、博士がなんだってんだ、人間は中身じゃないか、と胸を張るところに教授は素直に感動をし、惚れたみたいだ、という説はなかなか説得力がある。
退職金で東京・六本木のビルに「組織工学研究所」を開いた
糸川は1967年に教授会で辞職を表明する。54歳だった。批判を受けた末に、石もて追われたのである。そして、退職金で東京・六本木のビルに「組織工学研究所」を開いた。ロケット開発を始めたのが41歳だったから、糸川がロケット開発に携わった期間は、高々13年間にすぎない。だが荒野に道を拓く厳しさは先駆者にしか知りえないことだ。彼の道の先に日本の再起と復興があった。糸川はロケット黎明期をこう書き残している。
〈日本の経済収支が、赤字から黒字に転じたのは、丁度昭和42年からですから、まさに、戦後の貧困、耐乏、毎年の赤字国の中で、世界中から、「貧乏人の子沢山で、戦争に負けた国」として憐れみとも、さげすみともつかない環境であったわけです。
外国からは、その貧相な国が、何やら、オモチャじみたロケットをつくりはじめたと見られ、国内では、余計なことをやり出した出しゃばりと見られて、まことに、キヨホーヘン(毀誉褒貶)の激しい中で暮していたわけです〉