「あの人はみんなから調子に乗せられるの。誰かが言わないとね」
糸川は天才だが、わがままで冷徹でもある。周りの人を平気で切り捨てるときがあった。みんなが自分のように考え、理解するに違いないと思っている。しかし、現実はそうじゃない。
その糸川をこっぴどく𠮟りつける20歳年下の女性がいた。本名は定江というのだが、彼女が東京で経営していた美容室の名前から、「アンさん」の愛称で呼ばれていた。
「ヒデちゃん、あんたさ、赤塚さんに何を言ったの。あんたのこと考えている人に、きついことを言うんじゃないよ」
そう言って、ベーと舌を出したりする。やきもちを焼いて、ちゃぶ台を大先生に投げつけたこともある。
「お前なんか死んじゃえ!」
怒鳴りつけられて、大先生はみっともないほど謝り、最後には、
「そこまで言わなくていいじゃないか」
と2階の部屋にすごすごと上っていった。
「先生にあれはないでしょう」
と誰かが咎めると、彼女は「ダメなのよ」と首を振った。
「あの人はみんなから調子に乗せられるの。誰かが言わないとね」
2人のなれそめは
2人は晩年、長野県丸子町(現・上田市)の小高い丘で暮らしていた。千曲川のほとり、浅間山麓を望む古民家が終の棲家である。彼は東大教授を退官した後、東京の家に妻や子供――といってもすでに自立していたが――を置いて飛び出していたのだった。
その家の玄関先には手作りの2段ロケットが突っ立っていて、コロナ禍が広がる前は週に5日、そこで喫茶店「じねんや糸川」が開店した。
この町でも、糸川は「大(おお)先生」で通っていた。その「大先生」を座の中心に、和太鼓を交えた宴会や、アンさんとの派手な痴話げんかは、2人の残した古民家喫茶店の人々と、「ロケットボーイズ」と呼ばれる弟子たちの語り草となっている。
2人のなれそめについては諸説ある。
アンさんの実家は東京都江東区の町工場である。説の一つは、その工場が縁になったという説だ。
終戦直後の日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、飛行機や軍事の研究は禁じられていた。これが解けると、糸川は1954年に東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics=航空及び超音速空気力学)研究班を組織し、ロケット開発を始めた。翌年にはペンシルロケットの水平発射実験を行っている。
このとき、アンさんの実家の町工場が通称「糸川研究室」の実験機材や燃焼、飛翔実験の地上機材など、ロケットの実験に欠かせないモノ作りを担っていた。「その縁が糸川と結びつけた」
というのである。