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「あんた誰よ。東大のセンセイがなんだっていうの」 “日本の宇宙開発の父”糸川英夫が家を捨てて過ごした“アンさん”との日々

『後列のひと 無名人の戦後史』より#1

2021/07/28

source : ノンフィクション出版

genre : ライフ, ライフスタイル, 教育, 働き方, 社会, テレビ・ラジオ, 歴史, メディア

note

「あの人はみんなから調子に乗せられるの。誰かが言わないとね」

 糸川は天才だが、わがままで冷徹でもある。周りの人を平気で切り捨てるときがあった。みんなが自分のように考え、理解するに違いないと思っている。しかし、現実はそうじゃない。

 その糸川をこっぴどく𠮟りつける20歳年下の女性がいた。本名は定江というのだが、彼女が東京で経営していた美容室の名前から、「アンさん」の愛称で呼ばれていた。

右から糸川英夫さん、アンさん、林紀幸さん ©文藝春秋

「ヒデちゃん、あんたさ、赤塚さんに何を言ったの。あんたのこと考えている人に、きついことを言うんじゃないよ」

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 そう言って、ベーと舌を出したりする。やきもちを焼いて、ちゃぶ台を大先生に投げつけたこともある。

「お前なんか死んじゃえ!」

 怒鳴りつけられて、大先生はみっともないほど謝り、最後には、

「そこまで言わなくていいじゃないか」

 と2階の部屋にすごすごと上っていった。

「先生にあれはないでしょう」

 と誰かが咎めると、彼女は「ダメなのよ」と首を振った。

「あの人はみんなから調子に乗せられるの。誰かが言わないとね」

2人のなれそめは

 2人は晩年、長野県丸子町(現・上田市)の小高い丘で暮らしていた。千曲川のほとり、浅間山麓を望む古民家が終の棲家である。彼は東大教授を退官した後、東京の家に妻や子供――といってもすでに自立していたが――を置いて飛び出していたのだった。

 その家の玄関先には手作りの2段ロケットが突っ立っていて、コロナ禍が広がる前は週に5日、そこで喫茶店「じねんや糸川」が開店した。

 この町でも、糸川は「大(おお)先生」で通っていた。その「大先生」を座の中心に、和太鼓を交えた宴会や、アンさんとの派手な痴話げんかは、2人の残した古民家喫茶店の人々と、「ロケットボーイズ」と呼ばれる弟子たちの語り草となっている。

 2人のなれそめについては諸説ある。

 アンさんの実家は東京都江東区の町工場である。説の一つは、その工場が縁になったという説だ。

 終戦直後の日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、飛行機や軍事の研究は禁じられていた。これが解けると、糸川は1954年に東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics=航空及び超音速空気力学)研究班を組織し、ロケット開発を始めた。翌年にはペンシルロケットの水平発射実験を行っている。

 このとき、アンさんの実家の町工場が通称「糸川研究室」の実験機材や燃焼、飛翔実験の地上機材など、ロケットの実験に欠かせないモノ作りを担っていた。「その縁が糸川と結びつけた」

 というのである。