「聖書は人類史上最高のベストセラーです」
「糸川なのか?」
座の中心にいる老人を見て、同行した1人が小さな声を上げた。
「糸山英太郎じゃねえのかよ」
声の主は気のいい税理士だった。金持ちが大好きなのだ。異業種交流会で知り合ったのだが、どう間違ったか、実業家で元国会議員の糸山と、ロケット博士の糸川を取り違えて、「そんな大金持ちに俺も1回会ってみたいわ」と付いてきた。
糸山英太郎は株の仕手戦を演じたり、金権選挙で名を馳せたりして、世間の顰蹙を買ってきた人物だったから、間違われた糸川の名声が消えつつあるころだったのだろう。その夜の小さな集まりは、糸川が毎月開いていた「聖者に学ぶ勉強会」だった。教科書代わりの旧約聖書を手に、糸川は厳かに告げた。
「聖書を宗教の教典にしないでください。1日に200冊という本が生まれては消えています。けれども、聖書は4000年もの時代を超えて、今に伝えられる人類史上最高のベストセラーです。そこには真実があります」
赤塚は聖書を開いたことすらなかったが、「4000年を超えた真実」という説教は心に強く残った。勉強会が終わると、チリチリパーマの女性が、「さあさあ、ご飯でも食べましょう」と美容室の奥の和室にみんなを誘った。いくつものテーブルいっぱいに酒の肴が並んでいた。
「大先生の勉強会はね、いつもここでシラいているの」
「大先生はここね。みなさんはそこあたりに」
奇妙な宴会の始まりだった。女性は糸川を「大先生」と呼び、自分は「先生」と呼ばれていた。
美容室の女主人で、この家の主なのだった。
彼女はカティサークの瓶をそばに置き、自分で水割りを作っては嬉しそうにぐいぐいと飲んで、たちまち酔っ払った。彼女がちゃきちゃきの江戸っ子であることはすぐにわかった。
「大先生の勉強会はね、いつもここでシラいているの」
と、「開ひらく」を「シラく」、「朝日」を「あさし」と言って、お祭りの夜のように「さあ飲んで」「食べて、食べて」と世話を焼いた。その隣に微笑を浮かべた大先生の温顔があった。大先生はほとんど飲めないのだが、その顔は火照って頰は張りと艶があった。宴もたけなわになったころ、表情は柔らかく溶け、やがて、
「僕はもうこの辺で」
という声とともに、2階に静かに上がっていった。