「私はアンさんでいいのよ」
2階には簡素な書斎があって、アンさん以外は入れない聖域なのだという。店とは別に専用の電話が引いてあり、大先生はそれで外部との連絡を取っていた。
鮭のおにぎりに手を伸ばしながら、赤塚はその後ろ姿に頭を下げた。そして、彼女にも深々と首を垂れた。
「奥さん、きょうはありがとうございます」
すると、赤い顔の彼女は、
「私はアンさんでいいのよ」
質問を断つような寂しげな響きがあった。
「アン」という文字がこの美容室の看板に記されていた。糸川も「アンさん、アンさん」と呼んでいたので、本名だと信じたり、思いたがっていたりする人もいたようだが、そうではなかった。
糸川が引っ込んだ後も宴会は延々と続き、お開きになると、赤塚は勧められるまま、中2階のひんやりした小部屋に布団を敷いてもらい、そこに泊まった。階段を通して玄関が見えた。その夜はいつもの不安が現れるまえに疑問が次々と浮かび、そこへ緊張がのしかかってきて眠れなかった。
――ロケット博士がどうしてこんな美容室に寝泊りしているのだろうか? アンさんが奥さんじゃないのなら誰なんだろう。
払暁に寝床から這い出してみると、玄関のあたりに人の気配がある。戸を開いてみた。暗がりに誰かうずくまっていた。目を凝らしてみると、アンさんが赤塚たちの靴をブラシで磨いているのがわかった。渇いた胸の奥に、まだ残っていたのかと思えるような、温かく湿ったものが広がった。赤塚は声を立てず泣いた。
「人間はどうして生まれてきたのだろう? 」
彼は大手ゼネコンに営業職として勤めた後、郷里で工務店を継いだのだが、生真面目な性格で、「人間はどうして生まれてきたのだろう? どうせ死んでしまうのに」という人間根源の命題に答えを見つけられず、ずっと悩んでいた。
我慢することも、苦しみを愛することも、この世から消えてしまうこともできず、ずっと妻以外から優しくされたことがなかった。
いくつもの新興宗教の講話やセミナーに顔を出した。インドにも行った。だが、のどが渇いているときに海水を飲んだように、知れば知るほど渇いていく。オウム真理教の麻原彰晃が名古屋で開いていたヨガ教室にも通った。セミナーに現れた教祖さまは胡散臭く、漫画のバカボンのパパのようでもあったが、その怪異巨体にはぼうっと見惚れてしまった。あれを悪魔的な魅力と表現しなければ何なのだろう。
彼を誘った知人は「ヨガで神通力がつくよ」と酔いしれていて、「修行」という言葉の響きに引き込まれた。幻術から覚めたのは、オウム真理教内部の内紛に気付いたためだ。
彼らと違って、糸川には穏やかな知的好奇心を搔き立てるものがあった。
聖書なんて自分の人生にかかわりがないものだと思っていたのに、糸川にいきなり、「聖書は宗教の本じゃない」と言われてびっくりしたのだ。もっと続きを聞きたかった。もっともっと深く、と突き動かすものがあり、そんな知恵を身に付けられたら、生きるのがずいぶん楽になるかもしれないな、とも思った。