「燃え尽きて灰になるまでがんばれ」と励ましてくれた母
──漫才ではなく、コントをやろうと思ったのはなぜですか。
加賀 コントが好きだったからです。それに、僕の中で「漫才は関西弁」という強いイメージがあって、標準語やほかの地方の言葉で漫才をやるという選択肢はなかったんです。音の響きが独特で、しゃべっているだけで面白い関西弁に対するコンプレックスもあり、関西弁ができない以上、必然的にコントをするしかないという思いもありました。
誘ってくれた人は結局芸人を目指すのを辞めてしまうんですけど、僕は一人でもやろうと決めて、お金を貯めてNSCの大阪校に35期生として入学しました。
──心細くなかったですか。
加賀 一人で過ごしているというのは心細かったし、怖かったです。同期にはゆりやんレトリィバァさんやからし蓮根さんがいたんですが、もうまるっきり違いました。そういうすごい人たちを目の当たりにしてしまうと、自分なんか絶対無理だなと思って、母親に「帰りたい」と電話したこともありました。
そうしたら、「お笑いの道に進んでいるんだから燃え尽きて灰になるまでがんばれ」と『あしたのジョー』みたいなことを言われ、「そうだ、俺はコントをやるんだ」と、なんとか気持ちを立て直しました。でも、追い打ちをかけるように、NSCで「“漫才劇場”ができ、若手は全員漫才をやるようになる」という噂が流れて。実際はただの噂だったんですけど、「NSCでコントができないなら、東京に行くしかない」と東京行きを決めました。
ドすべりが悔しくて再トライしているうちにコンビ結成
──東京にもお一人で?
加賀 大阪NSCのときにピンネタをしていたら「一緒に組みたい」と声をかけてくれた子がいたんです。「東京行くから」と言ったら、「じゃあ俺もお金貯めて東京行くから1年待ってほしい」と言われたので、東京でアルバイトをしながらその子を待っていました。そのバイト先が賀屋と会ったコンビニです。それで、1年待っていたのに、そいつも「やっぱりお笑い辞めるわ」って言い出して……。お笑いをやる、と決めてから2年経ってましたから、さすがにその時は傷心状態だったんですけど、そんな僕に、「お笑い好き」という賀屋がいい感じに近づいてきたんです。
賀屋はお笑い関係の放送作家になりたかったそうで、僕がお笑い芸人をやりたいと知って「こいつに近づいたらお笑いの道に近づけるのではないか」という打算で僕に近づいてきたらしいです。すっかり策略にはまりました(笑)。2人ともコンビのネタを書いているのにどっちも相方がいなかったので、お互いに「相手役」としてやってみようと、お試しで2人で舞台に出てみたらドすべりしたんですよ。小道具とか衣装、カツラで2万円以上もかけたのにすべったのが悔しくて、もう一回出ようと再トライしてそれもまたダメで。「もう一回」みたいな感じで続けていくうちに、正式にコンビを組んでました。