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国鉄は関西本線準急で対抗、参急は名古屋延伸へ

 大軌グループが名阪ルートを担ったことで、国鉄側も対抗策をひねり出した。それまで名阪間は東海道本線が主だったけれど、裏街道扱いだった関西本線をテコ入れする。1930年に「快速度列車」と称して名阪間を4時間以上かけて走った列車を準急とし、1日3往復、所要時間3時間7分とした。大軌グループへの並々ならぬ対抗心、国営事業の威信を見せた。

参急が名古屋を目ざして延伸したとき、すでに伊勢電鉄があった。津~伊勢間は参急、国鉄、伊勢電鉄が並行していた。参急が伊勢電鉄を買収後も旧伊勢電鉄線は存続していたけれども、後に廃止された(地理院地図を加工)

 しかし大軌グループは名古屋延伸の野望を捨てない。1936年に伊勢~津間の競争相手、伊勢電鉄が経営破綻すると、参急が吸収合併する。ライバルの線路がほしかったわけではない。伊勢電鉄が持っていた名古屋方面の路線免許がほしかった。そこで未着工の桑名~名古屋間を建設するため関西急行電鉄を設立する。

 参急の津駅と旧伊勢電鉄の津駅は離れていた。参急で伊勢から津に来ても乗り換えが便利な国鉄に流れてしまう。せっかく伊勢電鉄をグループに引き込んだ意味がない。そこで1938年に参急は津線をちょっとだけ延伸し、旧伊勢電鉄の江戸橋駅に到達させた。その直後、関西急行電鉄は名古屋駅の地下、関急名古屋駅に乗り入れた。大軌グループによる名阪ルート完成だ。

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「ひのとり」車内のペンチスペース ©️杉山淳一

大軌グループの大改革

 ところで、大軌グループは世界標準軌間(1435mm)を採用している。伊勢電鉄の線路は狭軌(1067mm)だった。伊勢電鉄は国鉄と接続して貨車の乗り入れを実施したからだ。このままだと上本町~名古屋間の乗客は、伊勢中川と江戸橋で2回の乗り換えを強いられる。そこで大軌グループは大改革を実施する。伊勢中川~江戸橋間を標準軌から狭軌に改造して直通運転を開始した。もっとも、のちに元に戻す結果になるけれども。

 上本町~伊勢中川間は標準軌のままだ。だから大阪・上本町と名古屋は、伊勢中川駅で1回乗り換える必要がある。しかも伊勢中川経由は遠回りだ。しかし蒸気機関車の国鉄より伊勢回りの電車のほうが所要時間を短縮できた。1938年、上本町~名古屋間は3時間15分。関西本線準急とほぼ同じ。東海道本線の急行より速かったという。その後もスピードアップの挑戦は続く。

 1938年といえば鉄道の戦時合併が始まった年だ。大軌グループは周辺の鉄道を次々に合併していく。1940年に参急は関西急行電鉄を合併して路線を統合し、名阪間の所要時間を3時間1分まで短縮した。乗り換え1回の手間があるとはいえ、関西本線準急と互角の戦いとなった。1941年に大軌と参急が合併し、関西急行鉄道が発足した。

「ひのとり」の終着演出 ©️杉山淳一

 この頃、国鉄の関西本線準急は所要時間3時間9分、1日3往復。大軌グループは所要時間3時間19分、30分間隔のダイヤに落ち着く。スピードと運行本数の戦いであった。しかし、この競争時代も太平洋戦争の影響で終止符を打つ。国鉄は「決戦ダイヤ」で3時間30分、大軌グループは3時間40分。やがて戦時体制へ移行し、列車の運行そのものが維持できなくなる。

 1944年、関西急行鉄道は南海鉄道と合併。ここに近畿日本鉄道が誕生した。

後編に続く)