1980年代初頭に巻き起こった「漫才ブーム」。そこにおいてシンボル的な存在として人気を集めていたのが、タモリ、ビートたけし、そして明石家さんまらの「お笑いビッグ3」だった。
ここでは、今なお芸能界の中心的存在であり続ける彼らを軸に、社会学者の太田省一氏が日本のお笑いの変容を描いた『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)の一部を抜粋。明石家さんまが頭角を現し始めた際のエピソードについて紹介する。(全3回の3回目/1回目・2回目を読む)
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『オレたちひょうきん族』で全国区の存在に
さんまは、漫才ブームの中で虎視眈々と出番をうかがっていた節がある。「世の中が漫才一色になって、「今は漫才ブームの後ろを走らなしゃあない、背中が見えるようについていこう」」というのが、当時の本人の気持ちだった(『本人』11号)。
だが、関西で火がついたさんまの人気は、確実に全国へと広がっていた。きっかけとなったのは『ヤングおー!おー!』だったが、その後、関西圏に限らずさまざまな番組に出演するようになっていく。1979年にはラジオの深夜放送の老舗であるニッポン放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティに就任したほか、堺正章主演のTBSドラマ『天皇の料理番』(1980年放送開始)への出演があった(当初、3回の出演という話だったが評判がよく、ずっと出続けることになった)。
そんなさんまが、漫才ブームの流れに直接乗るきっかけとなったのが、フジテレビ『笑ってる場合ですよ!』(1980年放送開始)への出演であった。最初は月一回ネタを披露するかたちでの出演だったが、半年後にレギュラー入りを果たす。そして、この番組と同じ横澤彪らのスタッフによる『オレたちひょうきん族』(1981年放送開始)への出演につながっていく。
『ひょうきん族』にも、ツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんちといった、漫才ブームを牽引した若手コンビが大挙して出演した。だが、そこには思い切った改革もあった。出演の基本をコンビ単位ではなく、個人単位にしたのである。「何年もかけて練り上げた芸でも、テレビでは一度見たら飽きられる。ブームが生んだ芸人たちを長持ちさせるためには、持ちネタでない部分、特有のキャラクターに着地点を求める必要があると考えた。そのために、漫才のコンビを解体し、舞台での笑いとは違うテレビ的な笑いを組み立てようとした」と、横澤は言う(横澤、前掲書)。