芸人として、コメンテーターとして、俳優として、映画監督として……。さまざまな分野で活躍を続けるビートたけし。しかし、デビュー当初はなかなか評価されず、テレビに出ても賑やかしの添え物的な扱いに甘んじていたという。そんな男が絶大な人気を得るようになったきっかけとは。
ここでは社会学者の太田省一による『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)の一部を抜粋。“悪ガキ”ビートたけしが世間からの評価を集めるまでの変遷を紹介する。(全3回の2回目/1回目・3回目を読む)
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「ひとり団塊世代」たけし
タモリには即興芸を一緒に作り上げ楽しむ仲間がいた。その仲間たちは、タモリにとって観客でもあった。一方、たけしの即興芸にはいつも劇場の観客がいた。この違いはもちろん、アマとプロの違いでもある。だからこそ、たけしは修業というかたちで、ひたすら自分の芸を磨くしかなかった。その点では、新宿時代からたけしが抱えていた孤独は、根本的に解消されることはなかったのではないだろうか。
ただ浅草という街そのものには、孤独であったたけしが足を向ける理由があった。
たけしが語る浅草時代のエピソードには、たくさんの変わった人びとが登場する。映画館で上映中の映画の主役がやられそうになると、日本刀を持って敵役に切りかかり、スクリーンを破ってしまうヤクザのセイちゃん。真冬でも絶対に服を着ないホームレスの浅草ターザン。指名手配中で、実演中に刑事がいることに気づいて下着のまま逃げ出したストリッパー。こうした人たちを、たけしは「高度成長に取り残されたヘンテコリンな連中」と呼ぶ(『コマネチ!』)。
つまり、当時の浅草自体が「時代から取り残された街」でもあった。
そんな浅草も、近年では東京スカイツリーが開業したり訪日外国人が増加したりして、往年の賑わいを取り戻しつつある(コロナ禍で打撃を受けているが)。だが1970年代の浅草は、かつて東京一の繁華街として栄えた面影が消えかかっていた。明治時代から、演劇やオペラ、映画など娯楽の中心地として隆盛を誇った浅草は、戦後も浅草六区を中心に軽演劇、ストリップ、映画の街として賑わっていた。ところが高度経済成長期になると、その賑わいに陰りが見え始めた。テレビが普及し、映画の観客人口が激減したからである。それは、明治時代に初の映画専門館が生まれ、映画館の街としての歴史を持つ浅草にとって大きな打撃だった。1960年代半ばから、東京の繁華街の中心は、浅草から池袋、新宿、渋谷へと移っていった。