例えば、こんなネタが演芸場で大爆笑をとっていた。
「こないだも年寄りには親切にしなきゃって近道を教えてやってね。ジイさん、ありがたがって高速道路をてくてく歩いて行きましたから」「高速道路なんか歩かせるな。車に轢かれるだろうっての」「ジイさんの頭でもみ消すタバコの火ってね」「よしなさいっての」「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子ってね」「元気じゃないよ、そんなもの」「赤信号、みんなで渡ればこわくない」「なにをバカなこといってるんだ、おまえは」(井上、前掲書)。前出の井上によれば、後にたけしの代名詞となった過激な毒舌ネタ、いわゆる「毒ガスギャグ」は、この頃すでに確立されていたのである。
破天荒だったのは、ネタだけではない。他の芸人の衣装を勝手に着て舞台に出たり、自分たちのネタがウケないと、客のセンスが悪いと悪態をついてさっさと舞台を降りたりするのは日常茶飯事だった。また「寝たきり漫才」と称して、舞台に出るなり二人とも横になって、寝たままで漫才を始めたりもした。
つまり、ツービートは、浅草芸人の伝統的なスタイルを打ち破ろうとしていた。当時のたけしについて、ある先輩芸人は次のように振り返っている。「たけしは浅草の芸人気質じゃないからね。浅草芸人のふりをしてるけど、会った当初からやつには新宿の匂いがして、ああ、浅草じゃないなって俺は感じたもの。新宿でデモなんかやってた学生運動あがりだろうってね」(同書)。
たけしは実際には学生運動に入れ込んではいなかった。しかしそこに、「ひとり団塊世代」であるたけしの反体制的な精神を感じ取っていた人がいたことを示す証言だと言えるだろう。
それもあって、ツービートの漫才は、なかなか評価されなかった。たけしが自信をもって臨んだNHK新人漫才コンクールでも三年続けて最優秀賞を逃し、テレビに出ても賑やかしの添え物的な扱いに甘んじていた。
そこに突然、降って湧いたように巻き起こったのが、1980年代初頭の漫才ブームだった。その中で漫才は、旧来のそれと比べて遥かにスピーディなものとなっただけでなく、建前ではなく本音を前面に押し出すことで、若い世代に熱狂的に支持された。そこにツービートの過激な「毒ガスギャグ」はフィットした。ここから、芸人・ビートたけしの快進撃は始まることになる。
理想の悪ガキ
大学に入ったものの、当時は学生運動が真っ盛り。ほどなく授業に出なくなり、新宿でアルバイト生活の日々。フーテン生活を決め込んでみたものの、周囲になじめず新宿を離れ、浅草で芸人を志す。