こう書くと、確かに紆余曲折の半生、流転の日々ではある。しかし、その根底に一貫してあったのは、生まれ育った下町で培われた「悪ガキ」的感性だったのではないか。「ガキの頃から家の中で、親父やお袋に散々鍛えられて、自分の好みを通すには、口で相手を言い負かす以外ない」ことを悟ったたけしは、唯々諾々と親の言うことを聞く「いい子」ではなく「悪ガキ」であるしか選択肢がなかった。
そしてそれは、全共闘世代でもあった団塊の世代の世代的立ち位置でもあっただろう。もちろん学生運動には、資本主義を打倒するという名目も、そのための理論武装もあった。しかし一方で、それは「いい子」のままでいたくないという親世代への反抗、世代間闘争でもあった。大人の理屈に言い負けたりせず、簡単には権威に屈しないこと。何よりそれが重要だったのであり、その意味で「悪ガキ」であることは、団塊の世代にとって理想のあり方だった。
だから、漫才ブームにおいてビートたけしが絶大な人気を得た理由を聞かれたなら、それはたけしが“理想の悪ガキ”を体現していたからだ、と答えたい。たけしは、マルクスやサルトルといった哲学的議論にはまったくなじめなかった。だが、大人の痛いところを言葉で衝く鍛錬は、誰よりも幼いころから積んでいた。
「赤信号みんなで渡ればこわくない」を笑う社会
別の角度から言えば、団塊の世代が反抗した相手は、自立した個人同士が言論を戦わせる西欧近代的な市民社会というよりは、暗黙の了解で既存のルールや価値観に従わせようとする日本的な世間であった、ということになるだろう。
興味深いことに、「赤信号みんなで渡ればこわくない」というギャグで批判の対象となっているのも、やはり世間である。個人が能動的に判断して行動するのではなく、「右にならえ」的な感覚のほうが勝ってしまう世の中を、たけしは批判した。それでも世間はそれを笑い、支持した。
ここには、「笑う社会」が有する一種の柔構造がうかがえる。「笑う社会」の正体は、自らへの批判を吸収してしまうような柔構造を備えた世間である。
ところで、浅草出身のツービートは、漫才ブームの中核を担った若手漫才コンビの中で異端であった。先述したように、ザ・ぼんち、紳助・竜介、西川のりお・上方よしおなど、ほとんどが吉本興業所属の芸人だったからである。東京を活動の拠点にしていたB&Bの二人も、もとはやはり吉本の所属だった。
つまり、漫才ブームには「吉本ブーム」という側面があった。「みんなはMANZAI ブーム、マンザイブームって騒いでましたけど、テレビでブームになってるのは関西系の漫才師がほとんどで、ボクらは吉本ブームだといってましたよ」(井上、前掲書)。これは当時の浅草の漫才師の言葉だが、彼らの目にはこう映っていたのである。そしてビッグ3においてその吉本的な部分を担ったのが、明石家さんまであった。
【#1を読む】タモリの司会起用に周囲は「猛反対の嵐」…それでも『笑っていいとも!』が大成功した“決定的理由”とは
【#3を読む】「本番中にこいつには負けたと…」明石家さんまの“アドリブ力”はなぜビートたけしを唸らせることができたのか