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 皮肉な話だが、このように寂れかかった浅草だからこそ、高度経済成長から取り残された人々は、他の街では見つけられなかった自分の居場所を見つけることができた。たけしもまた、同じような境遇の一人だった。新宿を離れて浅草に向かったたけしは、まさに時代の流れに逆行していたことになる。

 フランス座で同僚だった井上雅義によれば、当時飲むと口癖のように「オレ、人生切ってきたから」と言っていたという。たけしがそこで言おうとしていたのは、「学歴もコネもない人間が出世しようとしても無理だ。オレは大学には一週間しか行かず、あとはバイト、バイトのフーテン生活。なりたいと思ったものになれないで挫折するのは社会の落ちこぼれだが、オレたちは最初から社会をはみ出しちゃったドロップアウトの組だ。オレはそれでいいと思っている」(井上『幸せだったかなビートたけし伝』)ということだった。そんなたけしにとって、「過去の生活も出身や生い立ちもいっさい問うことなく、ふらりと立ち寄った人間を黙って受け入れてくれる」浅草は、居場所として最適の土地だった(同書)。

 しかし井上は、そうしたたけしの言葉の裏側に、「ドロップアウトのどん底からスタートしたからには社会の間隙を狙ってどんな形ででもいいから抜け出てやろうという野心の炎」(同書)を見てとっていた。そこには、体制に組み入れられることに反発し続ける一方で、成功や出世への強い欲望も抱いているという、矛盾した二つの顔が見える。

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 だがそれは、たけしだけでなく、団塊の世代自体が抱えていた矛盾でもあったのではないか。他の世代と比べて人数の多いかれらが、高度経済成長期の競争原理の中に置かれたとき、成功への願望と失敗への不安は、同じくらいの重みがあっただろう。むろん、団塊の世代のほとんどの人間は、本気でドロップアウトすることはなかった。そんな中にあってたけしは、団塊の世代が抱え込んだ矛盾を、誰に頼まれたわけでもないのに忠実に生きていた。いわばたけしは、「ひとり団塊世代」だったのである。

コントから漫才へ

 そうして数年が経った頃、フランス座の出し物に異変が起こった。コントが幕間のメインではなくなったのである。そこに持ち込まれたのが、兼子二郎との漫才コンビ結成の話である。コントにこだわりを持っていたたけしは当初乗り気ではなかったが、フランス座での出番が減っていたこともあり、漫才師への転身を図っていくことになった。

 そこからまた紆余曲折があった。他の芸人とコンビを組んだこともあったが、結局、兼子とコンビを組むことになった。兼子との三度目のコンビ結成でついた名前が「ツービート」だった。その間にたけしがネタを書くようになり、それが次第に評判を呼び始めた。