学費未納で抹席処分となり、叔父に連れ戻される形で地元・福岡へと戻っていたタモリが二度目の上京を果たすのは1975年のことだった。『笑っていいとも!』の初回放送は1982年。この間の7年強、タモリはどのように過ごし、どのようにお昼の帯番組の司会者という名誉ある仕事を勝ち取ったのだろうか。

 社会学者の太田省一氏の著書『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)の一部を抜粋し、芸人としての活躍の足跡を振り返る。(全3回の1回目/2回目3回目を読む)

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遅れてきた大学生

 一度目の上京と二度目の上京の間に、日本社会は大きく変わっていた。

 一度目に上京した時の日本は、高度経済成長の真っただ中だった。二度目に上京した1975年は、高度経済成長の終わりがはっきりした年だった。前年の74年に戦後初のマイナス成長を記録したことが、翌75年に発表されたのである。奇跡とも呼ばれた高度経済成長によって、国民の生活は全体に豊かになった。だが、その一方で経済成長という国民共通の目標は失われ、この時期から、豊かさを背景に個人の生き方を優先する価値観が強まっていく。

 1975年に大学へ現役で入学したのは、1956(昭和31)年生まれの人々である。この年の大学・短期大学進学率は38.4%で、高度経済成長期に始まった進学率の上昇がピークに達した年でもあった。4割弱の人たちが大学に進学する高学歴社会の誕生である。

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 1950年代後半(昭和30年代前半)生まれの若者は、「しらけ世代」と呼ばれた。60年代末の学生運動の熱気が去った後に入学してきたこの世代は、政治・社会の情勢に無関心で、私生活のことにしか関心がないとみられていた。

 同じようなニュアンスは、この世代のもう一つの呼び名となった「モラトリアム世代」にもこめられている。心理学者・小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978)がベストセラーになったことで広まったこの呼び方は、大学生を中心とした若者のあり方を批判的に表現したものだった。

「モラトリアム」とは本来、「支払い猶予」を意味する経済用語である。それが心理学の用語に転用され、大人への「猶予期間」、つまり、社会に出ることを先延ばしして一時の自由に浸ることのできる期間という意味になった。そのような若者にとって、大学は勉学の場というよりも、遊びの場となる。そしてその象徴が、同好の仲間が集うサークルであった。

 タモリが二度目の上京を果たしたのは、そのような時代だった。もちろん今度は、大学生になるためではなかった。しかしそこには、途中でやめた大学生生活のやり直しという側面が少なからずあったように思われる。

 例えば赤塚不二夫宅での居候生活は、大学生の下宿生活のようなものであり、スナック「ジャックの豆の木」での密室芸の披露は、サークル活動のようなものだったと言えるだろう。モダンジャズ研究会のように、楽器を持ってのセッションではなかったが、そこでは即興芸によるセッションが連日のように繰り広げられた。