こうしてタモリは、かつて中途でやめたサークル活動をやり直すかたちとなった。タモリはいわば「遅れてきた大学生」であった。しかもこのとき、多くの若者は、勤勉さではなく遊び心を重視するようになっていた。つまり、タモリの生き方がすんなりと受け入れられる時代が来ていたのである。タモリが大学生をはじめとした若者たちから支持される条件は整っていた。
1958年生まれで、「しらけ世代」に属する評論家の坪内祐三は、こう述べる。「私たちシラケ世代は実は、本当はシラケていなかった(シラケたふりをしていたのだ)。だからそのシラケが攻撃に転じることもあった」(坪内『昭和の子供だ君たちも』)。
この同世代評は、タモリによる密室芸の評にそのまま当てはまる。でたらめ外国語にせよハナモゲラ語にせよ、タモリの芸は、多くの人が指摘するように、冷静な観察眼から発している。それは、当事者ではなく傍観者の立ち位置にいるということである。その意味ではタモリは「シラケて」いる。
しかし、坪内が指摘するように、シラケが攻撃に転じることもある。例えば、四カ国語麻雀のネタで、チョンボから大ゲンカになるという場面では、当初そこに仲裁に入るのは田中角栄や昭和天皇という設定になっていた。権威をパロディ化するというかたちで「シラケが攻撃に転じた」のである。いわばタモリは、早すぎた「しらけ世代」でもあった。
「恐怖の密室芸人」
上京後まもないタモリの密室芸を見た芸能関係者の間では、「やりたいことはわかる。だが、これをどう展開させるかというと非常に厳しい」という意見が強かったという。陶器のでたらめな歴史をもっともらしく解説してみせるNHK教育テレビの教養番組のパロディネタ「陶器の変遷」などをタモリがNHK関係者の前で披露しても、よく通じなかった。
しかし、先ほども述べたように、かつての時代と違って、タモリが若者に支持される条件は整いつつあった。
70年代後半、タモリはテレビやラジオに進出し始める。印象の薄い容姿をカバーするために、レイバンのサングラスに髪は真ん中分けというスタイルになったのも、この頃である。76年4月には東京12チャンネル(現・テレビ東京)『空飛ぶモンティ・パイソン』で初レギュラー、同年10月からはニッポン放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティとなった。さらに本節の冒頭でもふれた人気番組『金曜10時!うわさのチャンネル‼』のレギュラー出演の話も舞い込んだ。
この頃からタモリの密室芸は各所で話題になり始めた。「恐怖の密室芸人」という異名も生まれ、雑誌などマスコミでも盛んに取り上げられるようになった。1979年にはNHKのバラエティ番組『ばらえていテレビファソラシド』にレギュラー出演。好感度を重視するはずのお堅いNHKが抜擢したことでも話題を呼んだ。これをきっかけに、『NHK紅白歌合戦』の応援ゲストの常連にもなった(1983年には総合司会まで務めることになった)。