こうして、タモリの存在は広く知られるようになっていったが、きわどい芸風は健在だった。それが最も発揮されたのは、アルバムである。音楽と言葉による強烈なパロディの数々がそこには詰め込まれ、当時のタモリの芸のエッセンスを堪能することができる。例えば、1977年にリリースされた初アルバム『TAMORI』には、「ハナモゲラ相撲中継」、中洲産業大学ネタの「教養講座“日本ジャズ界の変遷”、NHK「ひるのいこい」のパロディ、さらに『オールナイトニッポン』のエンディングでもおなじみになった、アフリカ民族音楽にタモリがでたらめな詞をつけた「ソバヤ」が収録されている。
3枚目のアルバム『TAMORI3―戦後日本歌謡史―』(1981)に至っては、パロディの過激さゆえに当初、発売禁止となった。内容は副題にあるように、戦後歌謡史をまるごとパロディ化した意欲的なものである。1945年、マッカーサーならぬマツカサが厚木ならぬ薄木に到着したところから始まり、各年代のヒット歌謡曲と当時の世相がまるごとパロディで表現されていく。それも、「東京ブギウギ」が「入院ブギウギ」、「バラが咲いた」が「ハラをサイタ」になるなど、毒気に溢れるものばかりであった。
変わらぬ趣味人
そこに一大転機がやってくる。フジテレビ『笑っていいとも!』のメイン司会に起用されたのである。1982年のことだった。
タモリは「恐怖の密室芸人」として、大学生など若者を中心に絶大な人気を博していた。だが、お昼の12時からの番組となると、視聴者は主婦層が中心である。その時間帯の番組では、各局とも品行方正で建前的なことしか言わないタレントやアナウンサーが司会を務めていた。タモリはそれと正反対の存在だったわけで、その起用は、危ぶむような驚きの声で迎えられた。番組プロデューサーだった横澤彪は、「ワースト・タレントの大本命だった」タモリの起用に対して、「猛反対の嵐」が周囲から巻き起こったと述懐している(横澤『犬も歩けばプロデューサー 私的なメディア進化論』)。
しかし案に相違し、『笑っていいとも!』は結局、32年も続く長寿番組となり、日本のお昼を代表するテレビ番組になった。司会を務めたタモリの存在は、この番組を通じて一躍、全国的に知られるようになった。『笑っていいとも!』でタモリは、それまでの毒のある芸風を抑えてうまくお昼という時間帯に適応したとされる。実際、作家の小林信彦もこう指摘する。「タモリは、発想の根本にある〈差別〉を薄め、(中略)「笑っていいとも!」の〈無害な〉司会者として〈成功〉した」(小林『現代〈死語〉ノートⅡ』)。
確かにそういう面はあるだろう。しかし、私たちが想像する以上にタモリはずっと変わらなかったと見るべきではないだろうか。言い換えれば、タモリにとって「差別」や「毒」といった要素は、実はそれほど本質的ではなかったのではないか?