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「本番中にこいつには負けたと…」明石家さんまの“アドリブ力”はなぜビートたけしを唸らせることができたのか

『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』より #3

2021/08/09
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 だが、上岡龍太郎による指摘に従うならば、雑談こそがテレビ的な話芸であるはずだ。整然とした、よどみのない話し方ではなく、無駄な言葉や回り道にあふれたスタイルこそが、テレビというメディアにおいてはリアルなのである。

『笑っていいとも!』で観客が会話に参加して…

 しかもその雑談が、『いいとも』という公開生放送の場で繰り広げられることで、「笑いの共有関係」が実現される側面もあった。例えば、対談形式のトーク番組で公開放送をしたとしても、ホストとゲストの会話に観客が割り込むことは普通あり得ない。ところが、タモリとさんまの雑談はいわばジャズ的な意味での“セッション”なので、観客が二人の会話に参加できてしまう。

 その例として、1986年1月24日の雑談コーナーの一部を再現してみよう。失神するまねをして遊んでいたら、机の角に頭をぶつけて本当に失神してしまったという女性の投書が話の発端である。

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(タモリ)「本当に失神するというのは珍しいよね。」

(さんま)「追いつめられたら失神する…女性に多いって、この間言うてはったでしょ。」

(最前列の女性)「しないよー。」

(タモリ)「あるっつうの! オレはあんたと会話してんじゃないっての‼(笑)」

(最前列の女性)「ないもーん。」

(さんま)「あるのや! 参加せんようにね。ここは素人とプロの境い目よ、この線は。」

(最前列の女性)「差別!」 (『広告批評』81号)

 さんまは、観客の女性に対して会話に勝手に入ってこないように釘を刺す。だがその注意は守られず、むしろ女性の言葉をさらに誘発する結果になっている。さんま自身が素人の代表、プロと素人の仲介役でもあるので、プロと素人の違いを強調する言葉は、文字通りの意味ではなく、笑いのコミュニケーションにおける誘い水、いわゆる「フリ」として受け取られている。

 そもそも観客の参加意識は、横澤彪が考える「笑いの共有関係」が生まれるための必要条件であった。その意味では、会話に割り込んだ観客は間違ってはいない。漫才ブームの洗礼を受けた観客は、笑いのコミュニケーションに自由に参加させてくれないことを、冗談混じりではあるにせよ、「差別」とすら考えてしまうようになっている。そのような一般人の誕生は、ある意味においてさんまの教育の“成果”であった。

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