布ずれ、息遣い、蝉の鳴き声が聞こえない
「でも、あの日、娘は山の奥に行っちゃったんですよ。蝉でも取ろうとしていたのかなぁ。まだ、小さかったから……。夜になっても帰ってこなくて、ずっとずっと一人で明かり持って探して、やっと見つけたらボロボロで、もうああなっちゃっていたんですよ」
衣ずれの音も、息遣いも聞こえない。ただ、男の声だけがTさんに向かって降ってくる。
「お医者さんにも見せたし、神社も行ったし。でも、普通は山でそういうことしちゃうとその場で死んでるはずなのに、生きてたんだから運がよかったんですよ! 1、2ヶ月は一緒に過ごせたから、山も娘を許してくれたのかなって、あなたもそう思うでしょ?」
そのとき、Tさんはいつもミーンミンミン、ジジジジジとアパートの周りで鳴り響く蝉の鳴き声が一切しないことに気がついた。
「この子、それから蝉しか食べなくなっちゃって。蝉を見つけては頭からかじるから、私もたくさん取りました。前はプリンが好きだったのに、食べさせても吐くばかりで。でも、蝉は食べるんです。でも、痩せていくのが止まらないんですよ。すごい勢いで痩せて死んじゃって、村の人にも疑われたけど、私は蝉は食べさせていたんですよ。でもね、こうやってお友達が時々来てくれるから寂しくはないよね?」
初老の男性は声をかける方向をTさんの腹部のほうにズラし、誰か“もう一人”に話しかけた。
ズルッ…………トサッ。
か細い片手がマットレスの上に落ちる。
Tさんのお腹に乗っていたのはタオルケットではなかった。それはガリガリに痩せた“もう一人”だった。
口の中に砕かれた蝉の破片
その何者かはゆっくりと、片手で這い上がるようにTさんの顔の前まで自分の顔を近づけると、枯葉臭い口をガパッと開いて口づけをしてきた。
ジャリジャリジャリジャリジャリジャリ。
Tさんの口の中に砕かれた蝉の破片が入ってきた。
「いやね、あの辺に引っ越したのはよかれと思ってなんですよ。娘のためでしたから全てを捨てられました。この子、都会には馴染めない優しい子だったから。自然の中のほうが合うと思ってね。でも、あの山――」
初老の男性はまた下を向いて話し始める。
Tさんはその瞬間、意識を後ろに引っ張られるようにして気を失ったそうだ。
Tさんは翌朝起きると、動かした覚えのないタオルケットは部屋の端に剥ぎ取られたように投げ捨てられており、昨夜と比べ一気にやつれてしまっていた。彼はトイレへ行き、1時間は吐き続けたが胃からは何も出なかった。そしてその空の胃は以後、固形物を受け付けないようになったのだという。
「蝉なら食べられるのかなぁ」
Yさんは、頭をよぎった言葉を飲み込んだそうだ。
(文=TND幽介〈A4studio〉)