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 二号と明記するところは、悪意が十分で面白い。高寅には本妻の文子(37=当時、以下同)の他、二号のカネ(37)、三号のフミ(23)という二人の妾がおり、3人は背中に刺青を彫っていた。文子の家は清水町にある豪邸で、カネを竹町の家に居住させ、フミには馬場町にその名も『高寅』という小間物屋、いまでいう化粧品店を建設して住まわせていた。同じ歳の文子とカネは仲がよかったようで、相談して互いに、女の子を養子縁組していた。高寅が若いフミに熱を上げると、二号のカネは8年間の愛人生活を清算し、県内の別の街に逃亡してしまった。新天地では売春婦を組織し、刺青の女ボスとして生活していたが、高寅の元には帰らなかった。

ヤクザの巣窟

 カイズ・ビーチの記事にある通り、高寅は空襲で焼失した観音堂の再建にかなりの私財をつぎ込んでいた。高寅たちの寄進によって観音さまが再建されると、境内をはじめ、一角に数多くの飲食店や露店、見世物小屋などが並び、ここは再びヤクザの巣窟となった。ジャズ・ミュージシャン菊地成孔(小説家の菊地秀行は兄)の実家はここで食堂を営んでおり、著書の『スペインの宇宙食』にこう記している。

「僕が18歳まで育った千葉県銚子市という漁港町に、新宿歌舞伎町の5分の1ほどの規模の歓楽街があった。たったそれだけの狭い敷地内には、浅草と(観音寺を中心とした、屋台や土産物屋や見せ物小屋や映画館がひしめく場所)赤坂と(バーやスナックが昆虫の巣のように密集した夜の街)銀座(漁港から流れる魚を使った料亭やフランス料理店、高級クラブなど)が、無理矢理詰め込まれていて、(中略)銀座の客も、浅草の客も、赤坂の客も全員漁師だった。漁師以外の20%の人々は『流れもん』と呼ばれていた。銀座も赤坂も浅草も一様に魚類の匂いが立ちこめ、数メートル進むたびにそれに香水の匂いやヤキソバの匂いや線香の匂いが混じった。毎日が中途半端な祭りのようだった」

 ヤクザの喧嘩もよくあったらしい。

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「一番酷いのは漁師と地回りのヤクザの組み合わせだ。(中略)150センチ程の小柄のヤクザに、190はあろうかと思われる巨漢の漁師が因縁を付けた。漁師が胸ぐらを掴むと、ヤクザは中空に浮いてしまうほどだったが、僕は『ヤクザが勝つ』と直感した。ものすごい殺気のオーラがあり、冷たく見えたのと、なによりそのヤクザは左手首が欠損しており『片手』だったからだ。ヤクザは素早い身のこなしで、片手で傍らのビールグラス(キリンがケースごとに配給していたオマケのビールグラスは、子供の握力でも潰せそうなぐらいに薄かった)を掴み上げると、ひょいっと手のひらの中で、グラスの底が手のひらに当たるように掴み直し、ストレートを打つ要領で、軽くスナップを効かせると、漁師の右目にたたきつけた。(中略)手に『少年ジャンプ』を握りしめ、恍惚としている僕に、ヤクザは一瞥をくれ『チッ』と舌打ちをしてから、思いっきり優しい顔になると『ぼうや、ここの子か?』と聞いた。『そうです』『おとうちゃん呼んできな』」

 菊地は昭和38年生まれである。高寅事件から20年以上経っても、一帯には戦後の残滓が色濃く残っていたことがよく分かる。