『暴力の港』は、越川芳麿をモデルにした新聞記者の長台詞で物語を終える。
「銚子のギャングだって、昔の熊襲や、長髓彦とちっとも変わらないんですね。そして、近代になっては、飯岡の助五郎などという博徒が、この町に来た、というようなことを、町の老人は珍しがり、ありがたがってすらいるんですよ。(中略)タカトラなども、百年も経つと、昭和水滸伝の立役者になって、庶民の間で、人気者になるんじゃないですかね」
同様に読売新聞のキャンペーンも、100年後には勇気の記録として語られるかもしれない。しかし、暴力団の裏には、その力を利用するヤツらが必ずいることを忘れてはならない。高寅という顔役の排除の陰には、彼を恨む暴力団からの協力があり、新聞報道は暴力団の権力闘争に利用された。たとえ一時であっても、ヤクザが市民と共存する幸福を味わった高寅は幸せだったろう。暴力を背景にして他人のために奔走すれば、感謝され、それがシノギになった時代はこうして終わった。
港町を覆った黒い影の結末
14件の容疑で起訴された高寅は、検察から8年を求刑され公職から追放、特審局は高寅組の解散を指定した。配下が火箸で女将の額を突いた百番事件では無罪となり、一審で懲役7年の判決が下された。控訴審では暴行脅迫等が無罪とされ、懲役4年だった。最高裁判所に上告したところで、講和条約の恩赦で3年に減り、未決通算の5ヶ月を引き、2年7ヶ月になった。
裁判中、高寅は保釈で娑婆にいた。弁護団の筆頭で、戦前、検事総長、大審院長、司法大臣、中央大学学長などを歴任した林頼三郎は、「その都度、結果を軍政部に報告している特殊事件であり、もし有罪になれば日本の裁判史上に汚点を残すものになる」と主張している。占領軍の意思による起訴は明らかだし、いってみれば国策だ。しかしその5年後、高寅は上告を取り下げ、昭和29年3月15日、千葉刑務所に下獄した。
翌年、高寅の盟友である椎名隆は衆議院議員にようやく当選、法務委員となった。この時、読売新聞は新興宗教である立正佼成会の批判キャンペーンを紙面で展開中で、かつての仇敵だった読売新聞の福岡と、今度は味方陣営で顔を合わせた。
「なんとなく面はゆい気がする」
福岡はそう書き残している。
銚子はいまも漁業が街を支え、平成23年以降、10年連続日本一の水揚げ量を誇っている。
港町を覆う黒い影は、もはやどこにもない。
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