読者はびっくりしませんか。東条も杉山も、日本の国力が長期戦には耐えられないことがわかっていたことは、これらの史実が証明しているのではありませんか。日中戦争がはじまっていらいの対中国戦費はすでに280億円を超えています。国力が疲弊していることは誰にもわかっています。でありながら、本書でわかるように、7月2日の御前会議で、海軍の対米強硬派の連中のいうがままに、軍のトップは南部仏印進駐を決定しているのです。
そしてその国策どおりに7月28日、陸軍の大部隊がサイゴン(現・ホーチミン)に無血進駐します。アメリカはただちに石油の全面禁輸という恐れていた戦争政策で応じてきました。この瞬間に、日米交渉妥協への命綱が切り落とされたにひとしい情勢になってしまったわけです。
まったく、“無謀な”という形容詞をつけねばならない決断であった、といえます。
東条内閣はこうして生まれた
そうした情勢下で、東条英機内閣が成立したことは、恐らく昭和史の不思議の一つに数えられるかと思います。次に、そのことについて。
ご存じかと思いますが、昭和15年11月に91歳で元老西園寺公望が没したあとは、日本の首相は首相経験者である“重臣”を中心とするお歴々の合議によって選ばれることになっていました。この原則論はわかっていても、ではどんな風に重臣によって首相が選び出されるのかは、案外知られていません。で、具体的に東条の場合は、ということで、こんどは確たる史料にもとづいてドラマチックに、いくらかインチキなト書きを入れて、楽しく一席やることにします。
16年10月16日、せっかく申し込んだ日米頂上会談もオジャン、ニッチもサッチもいかなくなって近衛が内閣をおっぽり出します、そのあとの重臣会議に列席したのは、重臣プラス内大臣の木戸幸一、枢密院議長の原原嘉道。討議は、長老格の若槻礼次郎が「勇ましい主戦論は危険であり、いま戦争をしたらどうなるかも、慎重に検討すべきである」と前提的な牽制球を投げたあとからはじまりました。