『昭和史』や『日本のいちばん長い日』など、数々のベストセラーを遺した半藤一利さんは、今年1月に90歳で亡くなられました。陸軍将校による座談会を、昭和史研究の基礎資料として読み込んできた半藤さん。

「アメリカと戦争するなんて、夢にも思わなかった」。参謀本部、陸軍省の元エリートたちは、口を揃えてそう言いました。1941年、日本最強の巨大組織で、何が起こっていたのでしょうか。『なぜ必敗の戦争を始めたのか』(文藝春秋)より一部抜粋して紹介します。(全2回の2回目/前編を読む)

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 結局は、広田の「内大臣の案に大賛成」ですべては決して、10月18日に東条首相がめでたく誕生。本書で、任命された東条がびっくりする様子がくわしく語られていますが、選出した重臣会議がこんな具合でしたから、無理もないことであったでしょう。そして、その結果として、その2カ月後には無謀な戦争突入となるのです。それにつけても、大事な会議がこんなものであったとは! もう一度、噫!

半藤一利さん

 こうして成立した東条内閣の登場に、多くの人が驚いたことは書くまでもありません。しかし、木戸の意図は、のちの彼の手記によれば、天皇にたいして忠義一途のこの将軍に責任をもたせることによって、陸軍の開戦論者を抑えるという苦肉の策であったというのです。このとき昭和天皇は「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と感想をもらした。この感想に、木戸は「感激す」と10月20日の日記に書いているのです。推量すれば、天皇に代わって俺が東条をリモート・コントロールしてみせる、という自信が木戸にあったのではないでしょうか。ですから、木戸は東条および海相留任(予定)の及川をよんで、みずからが伝えているのです。

「9月6日の御前会議の決定にとらわれず、内外の情勢をさらに深く検討し、慎重に考慮する必要がある」と。

 すべて新規まき直し、いわゆる「白紙還元の御諚」です。東条は天皇にいわれたのではなく、木戸にいわれたのです。けれども、内閣と違って、陸海軍統帥部は“白紙還元”の御諚もなんら受けませんでした。ですから、軍は戦争への道をひたすら進んでいくのみであったのです。東条内閣が成立した翌日の10月19日に、海軍統帥部は正式に真珠湾攻撃作戦を決定します。

 東条は催促して戦力の再検討をざせ、それを天皇に律儀に詳しく状況報告し、ということになっていますが、『昭和天皇実録』にはそういう記載はありませんでした。ともあれ、内閣としての結論をだしました。戦備を整えることをつづけながら、日米交渉をつづける。しかしながら、11月29日までに交渉が不成立ならば開戦を決意する、そのさいの武力発動は12月初頭とする、というものでした。