「ニイタカヤマノボレ 1208」
「ついに交渉の期限が明記されるにいたった。訓電の意味するところは明白であった。日本はすでに戦争機械の車輪を回しはじめているのであり、11月25日までにわれわれが日本の要求に応じない場合には、アメリカと日本の戦争をあえて辞さないことを決めているのだ」
こうして7月2日の御前会議の“決意”が、9月6日には“準備”となり、ついには“決定”にまで、かけ上ってきたのです。ぬきさしならない道を、ただ一筋に、そしてひたすらに戦争へ。もはや狂瀾を既倒にめぐらすことはできません。残されているのは、開戦をいつにするかという最後の御前会議だけでありました。
同じ11月5日、御前会議終了後、永野総長から山本五十六連合艦隊司令長官に、大海令第一号が発令されました。自存自衛のために、12月上旬を期して米英およびオランダに開戦を予期し、作戦準備を完整せよ、というものです。翌6日、陸軍も南方派遣軍を編制し、寺内寿一大将を総司令官に任命しました。陸海軍ともに作戦計画のほうは、見事なほど万全を期していました。
12月1日、最後の、第4回の御前会議がひらかれました。もはやあらゆる望みは失われたと、政府も陸海軍もさばさばとしています。交渉決裂、戦争に突入するのみだ、という決定がなされます。午後2時に開会し、1時間ほどで終了しました。ほとんど何も論ずることはなかったのです。木戸内大臣が、開戦の決定を「運命というほかはない」と手記に書きました。この決定をうけて12月2日、山本連合艦隊司令長官は全軍に暗号による命令を発します。
「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」
開戦日、Xデーは12月8日と決定したことを知らせたものでした。
ところで、なんと日本が開戦を正式に決定したその翌々日くらいの12月5日、軍部が心の底から勝利をあてにしていたドイツの国防軍は、モスクワまでわずか30キロに攻め入ったにもかかわらず、ソ連軍の総攻撃をくらって退却をはじめていたのでした。吹雪のなかを追い立てられて総崩れ、後退に後退をはじめたわけです。ドイツがソ連を降伏させるなどという目はまったくなくなっていました。歴史とはなんと皮肉なものでしょうか。そんなことも知らず、12月8日に日本は闇雲に亡国の大戦争に突入していったのです。