今年1月、90歳で亡くなられた半藤一利さんは、昭和史研究の第一人者として、多くの著作を残しました。「歴史探偵」として、昭和史や太平洋戦争など、今につながる歴史について教えてくれた半藤さん。2015年に映画化もされた『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)より、一部を紹介します。(全2回の2回目。前編を読む)

◆◆◆

第二の原子爆弾の報

 第二の原子爆弾の報に暗然としながら、最高戦争指導会議は予定時間を1時間も超えたが、ついに結論がでず、つぎに閣議が予定されているため1時すぎ休憩に入った。その閣議も、夕食をはさんで、第1回が午後2時半から3時間、さらに第2回が午後6時半から10時までひらかれたが、ポツダム宣言を受諾すべきか否か、ここでも閣僚の意見はまとまらなかった。

ADVERTISEMENT

 しかし、日本に戦う余力はほとんどない、というのが共通した意見となった。阿南陸相は憤然としていった。

©文藝春秋

「かかる事態は十分承知のことである。この実情のもとで、これにたえて戦うことが今日の決心であると思う」

 議論に疲れたとき、文部大臣太田耕造(おおたこうぞう)が突然に思いついたように、首相にいった。

「対ソ交渉が失敗したことの責任、そしてただいまの内閣の意見不統一という点からみましても、筋道からいえば内閣は総辞職すべきではなかろうか。総理はいかがお考えになりますか」

 これは重大発言であった。事実、ソ連仲介の和平工作は天皇に上奏済(ずみ)である。その見通しを誤って大失敗したこと、この一点をもってしても総辞職は当然であったからである。

 鈴木首相はつむっていた眼をあけると、無造作にいった。

「総辞職をするつもりはありません。直面するこの重大問題を、私の内閣で解決する決心です」

 閣僚の何人かは阿南陸相をこのとき注視した。陸相がここで太田文相に同調すれば、内閣を総辞職に追いこむこともできるのである。陸相はこうしたやりとりを聞かなかったかのように、背筋をのばして端然たる姿を崩さなかった。