今年1月、90歳で亡くなられた半藤一利さんは、昭和史研究の第一人者として、多くの著作を残しました。「歴史探偵」として、昭和史や太平洋戦争など、今につながる歴史について教えてくれた半藤さん。『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)より、一部を紹介します。(全2回の1回目。後編を読む)

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「忍び難きを忍ばねばならぬ」

 8月6日、広島の朝は、むし暑い雲もほとんどない快晴であった。7時9分、三機のB29がレーダーにうつり、警報が発せられたが、敵機は姿をみせず、31分に解除になった。敵機は偵察のため飛来したもの、とラジオは伝えた。やれやれという気持で約40万人の市民が日常の行動に入った。

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 8時15分、烈(はげ)しい閃光とともに大爆発が起った。一発の爆弾が40万の人間にもたらしたものは、〈死〉の一語につきる。広島市は瞬時にして地球上から消えた。

©文藝春秋

 東京にある日本の中枢で、広島壊滅の報をいちばん早く知ったのは海軍省である。8時30分、呉鎮守府よりの第一報がとどいたのである。海軍省は正午ごろには調査団の派遣を決定している。陸軍中央がこの報を知ったのはずっと遅かった。広島の通信網が完全に破壊されたため、第二総軍司令部(在広島)からの報告は、呉鎮守府経由で送られてきたのである。

 陸軍省から内閣書記官長迫水久常(さこみずひさつね)をとおして、内閣に広島の第一報が知らされたのは午後も遅くなってからである。天皇もまた、同じころ蓮沼蕃(はすぬましげる)侍従武官長から広島市全滅の報告をうけた。たった一発で広島市が死の町と化したという。天皇は顔を曇らせたが、それ以上たずねようとはしなかった。

 翌7日朝、アメリカからのラジオ放送はトルーマン大統領の声明として「われわれは20億ドルを投じて歴史的な賭けをおこない、そして勝ったのである……6日、広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じないかぎり、さらにほかの都市にも投下する」と伝えてきた。外務省筋よりこのことを知らされた藤田尚徳(ふじたひさのり)侍従長は、ただちに御文庫へといそいだ。報告を聞いた天皇は侍従長をとおし、政府と陸軍にもっと詳細を報告するように命じた。