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 しかし、陸軍はその可能性をみとめつつも、なお連合軍側の宣伝か謀略かもしれないとして、興奮と混乱のうちにも強気と冷静さをよそおわんとした。あらゆるところに箝口令(かんこうれい)がしかれ、国民に発表する方法と内容をきめる会議が、情報局と科学技術院および軍の関係者とのあいだに頻繁にひらかれ、激論が戦わされたが、公式の調査によって事実が確認されるまで“原子爆弾”という言葉は使わないことに落着いた。こうして、地球の上に忽然(こつぜん)と出現した全能の支配者に、日本帝国はあえて背を向けようとするが、これがとどめの一撃であったことは隠しおおせない。

「新型爆弾」の大本営発表

 午後3時30分、大本営はラジオをとおし、無気味な、しかし簡単な文字をつらねて、これを国民に報じた。

「一、昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり

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 一、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」

©iStock.com

 この放送をきっかけにしたように首相官邸にさまざまな立場の、さまざまな意見の人たちが陸続としておとずれた。即時終戦をいうもの、徹底抗戦を揚言するもの、国体護持を絶叫するもの、皇国の使命を説くもの。しかし政府はなおも動きをみせようとはしなかった。

 翌8日の朝の新聞は、昨日ラジオで報ぜられた「新型爆弾」の大本営発表をかかげた。しかし日本の政官界および言論界をかけめぐったのはトルーマン声明のほうであった。誰も大本営のいう「謀略」説を信ずるものとてなかった。その日の午後、東郷外相が決意の色をうかべて参内してきた。御文庫地下壕で天皇に拝謁した外相は、原子爆弾にかんする昨日からの米英の放送をくわしく報告し、短波は狂ったように原子爆弾(アトミツク・ボム)をくり返していると上奏した。天皇はすべてを承知し、すでに重大な決意をかためた。天皇は低い声で外相にいった。