長崎に第二の原爆が投下
米内海相、東郷外相は(一)天皇の国法上の地位を変更しないことだけを条件として、ポツダム宣言受諾説をとった。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田副武(とよだそえむ)軍令部総長は、天皇制を守りぬくためにも(一)の条件のほかに、(二)占領は小範囲、小兵力で、短期間であること、(三)武装解除と(四)戦犯処置は日本人の手にまかせること、以上の四条件をつけることを主張したのである。鈴木の意見は海相・外相説に近かった。
これらの四条件は国体護持のためのギリギリのものである。それもなく、ひたすら無条件に頭をさげるのでは、天皇にたいして、国にたいして、無責任という以外の何ものでもないと、阿南陸相は説いた。
「臣子の情として、わが皇帝を敵手に渡して、しかも国体を護持しえたと考えることは、なんとしてもできない。……ソ連は不信の国である。米国は非人道の国である。こういう国に、保証なく皇室をまかすことは絶対に反対である」
(一)以外の条件をだして決裂した場合はどうするのか、と外相は質問し、陸相は最後の一戦を交えるのみと答えた。勝つ自信はあるのか、勝利は確実であると断言するわけにはいかぬが、敗北必至ともいえないのである、という応酬がつづいた。
会議は紛糾した。しかし、それは静かに沈んだ調子で語られていた。雄弁をふるうものは一人もなく、暗澹たる空気のうちにすすめられた。長崎に第二の原爆が投下されたのは、この会議中のことであった。