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 第一走者が頭にキリリッと鉢巻きを締め、真剣な表情でスタートラインに立つと、「パーン」という合図の音とともに一斉にスタート。我が印刷工場の第一走者である無銭飲食は見事なまでに完璧なフォームで腕と脚が上がり、どの走者よりも美しい走り方だったが......、なぜかドンケツだった。ところが二番走者のシャブ中がバトンを受け取るや、見る見るうちに差を縮め、一人抜き二人抜きし始めた。これには印刷工場の懲役たちが興奮してしまい、まるで「さすらいのギャンブラー」たちが競輪場や競馬場で券を握りしめて熱くなっているような形相で、

「行けェ! 行けェ! それ抜けェー!」

 目を吊り上げ、口角泡を飛ばし、顔面に青筋を浮き上がらせて絶叫する。

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 そんな中、旅慣れた懲役の一人(昔、啖呵売をしていたという香具師のシャブ中のオッサン)が実況中継を始めた。

「抜きました! また一人抜きました! 覚せい剤中毒患者、今、下着ドロボーを抜いて二位です! 速い、速い! 脚が速い! まるで借金取りに追われている債務者のようです!」

 などと、昔の府中刑務所の運動会を彷彿とさせるかのような、当意即妙な台詞で場面を盛り上げるので、ボクは腹を抱え、喉チンコを震わせて笑ってしまった。

 一気に四人を抜いたシャブ中は、コンビニ強盗にバトンタッチ。デカい図体のコンビニ強盗が、これまた鬼のような形相で刺青の入った腕を振り上げ、ドタバタといった感じで走り出す。

 先頭の走者とは数メートルしか離れていない。このままバトンをドロボー界のブルース・ウィリスを自認する西に渡せば、勝てたかもしれなかった。しかし、コンビニ強盗は最終コーナーを曲がって、あと十数メートルというところまで来たとき、コンビニの外でつまずいて捕まったときと同じように、なぜか、ここでも転んでしまう。

 閻魔の庁で罪人が閻魔大王に会ったとき、極楽浄土へ行けたはずの八尾地蔵の手紙を失くしたために、閻魔大王に地獄へ蹴落とされてしまったかのような運の悪さである。

 このようにして運動会は終わり、印刷工場は入賞には遠く及ばなかった。

突然無言のままバットを振り上げて…

 北の冬の訪れは早い。運動会のあとすぐに、今度は野球の試合が始まった。

 何試合か印刷工場が勝ち進み、準々決勝にも勝った。その試合が終ったあと、ボクたち印刷工場の懲役が、それまで座っていた茣蓙を畳み始めていた、まさにそのとき、突然、神奈川から護送されて来ていた普段はおとなしい窃盗犯のヨシという懲役が、無言のままバットを振り上げて、帰り支度をしていた門野に襲いかかったのである。

 辺りが騒ぎ出したので、ボクと佐々山が後ろを振り向くと、まだ片づけ終わってない茣蓙の上で、ヨシが倒れた門野の上に乗っかかり、殴りかかっていた。驚いたボクと佐々山がすぐに二人を引き離そうと、間に割って入った。と、突然、ボクは左の頬に殴られたような衝撃を受けた。見るとそこには、眼鏡を顔から半分ズリ落とした、赤鼻で月のクレーターのようなデコデコ区長の顔があった。

「あッ! 悪い、悪い」

 区長はボクに謝りながら、止めに素っ飛んで来た印刷工場の担当部長と一緒に喧嘩をしている二人を押さえつけた。