「芝の裸女殺し捕る」
翌8月19日付朝刊では、捜査のために18日に現場周辺で行われた“山狩り”の模様が報じられている。朝日は「顔見知りの犯行か 山狩りして(証拠)品集め」の見出しで写真も付いている。記事の中に気になる記述がある。
「現場から20メートル離れた所から発見された木綿の腹巻は引き裂いた跡があり、裸の女の絞殺に用いた細ひもとほぼ同一だが……」。これが後で、姉が作って被害者に与えた腹巻で、凶器に使われたと断定された。
そして、発覚から4日目の8月20日、事件はあっけなく解決したように見えた。
芝の裸女殺し捕る 被害者は行司伊三郎氏の娘
芝山内に発見された二人の女の死体のうち、裸の女の身元は20日、本所区東両国2ノ8、行司・式守伊三郎(本名・緑川義一郎)氏の三女(17)と判明した。8月6日午前9時、母親の寄寓先、目黒区下目黒4ノ973、山木方から白のワンピース、ズックの白靴という服装で10円(現在の約410円)持って、芝浦の方に就職を探すと言って出たまま帰らなかったもの。母親から警視庁防犯課に届け出があって分かった。本人は今年女学校を卒業したばかり。なお式守伊三郎氏は目下東北巡業中である。
身元判明とともに同日正午、栃木県生まれ、渋谷区羽沢88、洗濯夫、殺人前科1犯・小平義雄(42)を容疑者として自宅で検挙。取り調べの結果、犯行を自白した。なお、別死体と同一犯人ではないかと捜査中。(8月21日付朝日)
被害者に職のあることをほのめかし…
朝日の記事には、被害者との接触の状況も自供を基に「就職斡旋を口實(実)に誘出す」の小見出しで記されている。
犯人小平と被害者が知り合ったのは7月10日ごろ。ちょうど品川駅前で事故のあったとき、偶然そばにいた小平がよもやまの話をしかけ、被害者が職を探していると言うと、小平は職のあることをほのめかし、そこでお互いの住所を告げ合った。その後、被害者は大腸カタルで2、3日寝込んだが、8月4日、小平はわざわざ被害者の家を訪ね、親とも会ってすっかり信用され、就職の試験をするからとて6日午前9時、某所で被害者だけと会合。ごちそうした後、増上寺山内に案内、山の上でゆっくり話そうとて、そこで暴行し、被害者の腹巻で絞殺、衣類や履物はやぶの中に隠した。その後、被害者の母は不審がって小平を訪ねたところ、小平は試験の日に会えなかったとしらばっくれ、今度死体の記事を新聞で見た母親が警視庁に届け出て小平との関係も一挙に分かったもの。
身元判明の経緯は、当時の堀崎繁喜・警視庁捜査一課長が雑誌「刑事警察」第2号(1947年11月)掲載「小平事件の捜査(一)」に書いた内容と、実際に捜査一課で身元確認作業を担当した三宅修一・捜査一課係長の著書「捜査課長メモ」では内容が違う。
「小平事件の捜査(一)」は、新聞の扱いが大きかったので、届け出や問い合わせがあることを予期したところ、当日(18日)だけで計8人の届け出・問い合わせがあった。三宅係長らが関係書類を検討し、行司の娘が「本件裸体被害者にやや似通っていることを発見」したという。「捜査課長メモ」はこう書いている。
その(17日)夜遅く、身元を知るために詳しい新聞発表が行われ、夜を徹して家出、行方不明女性の調査をやった。わが娘の身を案じ、「もしや」と思い、人目をはばかりつつ、翌朝芝の愛宕署捜査本部に見えた10人の母親のうち2人の女性の証言で、全裸の被害者は目黒の行司の娘の変わり果てた姿と分かった。その氏名は、前夜のうちに作られた300名に近い年ごろの女性名簿の99人目に載っていた。