数多い犯罪のうちでも、戦後昭和の性犯罪といえば、この小平義雄による「小平事件」と1971年の「大久保清事件」がすぐ挙がるだろう。
戦後のすさまじい食糧難のさなか、農村へ買い出しに出かける客で混雑する駅前などで若い女性に声をかけ、「一緒に行けば食糧が手に入る」「就職を斡旋する」などと言って人けのない場所に連れ出し、暴行した後、絞め殺して遺体を放置する――。
その数は10人とされ、裁判で3人については認められなかったものの、7人が認定されて死刑に。「〇人目」という連日の報道は世間を震撼させた。「殺人暴行魔」「女性の敵」から“淫獣”とまで呼ばれた小平が犯行を重ねた1年余りは、敗戦を挟んで日本の社会が未曽有の混乱をきたし“無政府状態”だった時期。表向きの彼は、日本が戦争にひた走り、敗戦、占領へ移る時代に、市井の片隅でごく平凡な人生を送っていた。
この時期にしかあり得なかった連続暴行殺人の実体と意味とは何だったのか。今回も差別語、不快用語が登場するほか、被害者は原則匿名に、住所も省略している。残虐な記述は割愛した。ご了解を。
10メートル離れて全裸と半ば白骨化した遺体
この「昭和事件史」の「仁左衛門一家殺し」や「プラカード事件」でも述べたが、敗戦直後の食糧の欠乏はいまからは想像もつかないひどさだった。配給制度はあったが、遅配、欠配続き。特に、敗戦の年1945年には台風などの被害も加わって農業生産が崩壊。翌1946年は食糧難がピークに達していた。事件が発覚したのはその年の夏だった。
女二人の怪死體(体) 芝山内 一人は全裸、他は半ば白骨化して
17日午前11時ごろ、芝区増上寺境内供養塔裏山で、大森区大森5ノ103、木こり吉沢新三さん(44)が作業中、山の北側傾斜ササやぶの中に全裸の婦人の絞殺死体があるのを発見。付近の赤羽橋派出所に届け出た。愛宕署員が現場に急行。調査に当たったが、現場には、その全裸死体から約10メートル離れた所にも、さらに半ば白骨となった婦人の死体を発見。警視庁捜査一課では直ちに同署に捜査本部を置き、捜査を開始した。
全裸の死体は年齢25歳。日本てぬぐいで絞殺され、死後約10日を経過。付近には履物、下着などの遺留品も全然残されていない。また、半ば白骨死体となった婦人は年齢20歳前後と推定され、白の半袖シャツに黒っぽいスカート。白軍用靴下を履き、死後1カ月を経過している。いずれも身元不明。死後の時間的経過からみて別個の犯行とみられているが、両死体とも暴行を加えられた形跡がある。現場はササやぶが身の丈ほど一面に生い茂っており、都心とはいえ増上寺境内は人通りもまれで死体の発見も遅れ、捜査は相当困難視されている。
8月18日付読売は2面3段でこう報じた。当時の新聞は朝刊のみで原則2ページ。朝日は「裸體と白骨の女死體 増上寺境内草むらに謎の事件」の見出しで2段、毎日は「女の他殺體二つ 増上寺の裏山」で3段の扱いだった。読売の記事の推定年齢は2つの遺体を取り違えたようだ。
内容が最も詳しいのは毎日で、現場について「毎夜50組くらいの闇の女がうろつく所で、合意のうえでなければ登れないけわしい所なので、被害者は闇の女説が有力である」と書いている。
東京法令研究所・渡邊貞造「死の抵抗―小平義雄事件の公判記録」という1949年3月に出版された冊子は、警察か検察周辺の資料を基にしているのか、事件についての記述はかなり詳しい。それによると、第一発見者の木こりは戦災樹木の伐採をしていて、4、5日前から死臭に悩まされていたという。つまり、現場一帯も空襲に遭い、ササの間に焼け焦げた樹木が立ち並んでいたということだろう。
現在は東京タワーのすぐ近くの都心の一等地だが、それでも夜間は人通りは少ない。敗戦直後の空襲で焼野原となった東京では、一面のがれきの中で夜の女が男の袖を引いて向かう場所になっていたようだ。