「卒業式」が「失業式」だった当時
被害者は当時、銀座の喫茶店に勤めながら、職を探していた。というのは、このころ都市の若者層は深刻な就職難に陥っていたからだ。
1カ月余り後の1946年9月30日付朝日には「誰が謂ふ(言う)『失業式』 千名中、就職は五十名」という見出しの記事が見える。「29日の午後2時、早稲田大学大隈講堂で新卒業生1029名の卒業式が行われた。この日までに学校で分かった就職確定者わずかに50名余り。まさに失業式である」(このころは秋卒業だった)。
橋本健二「はじまりの戦後日本」によれば、そのメカニズムはこうだ。戦時体制下、多くの人々が徴用で軍事産業に動員され、戦争末期には、徴兵された労働者の穴埋めで学生・生徒や「女子挺身隊」などの動員も拡大した。敗戦とともにこれらの労働力は働き場所を失った。
1945年11月の厚生省統計によると、敗戦後の工場休廃止による徴用解除者は413万人。一部は徴用前の職場や家業に戻ることができたが、多くは社会に投げ出された。そこには、国内外から復員した膨大な元兵士や引揚者もいた。大学の新卒でさえ就職が難しかったのだから、被害者が職を求める事情はさらに深刻で切実だっただろう。
海軍生活での“性と暴力”
8月21日付毎日は早くも小平の前科の内容を伝えている。「郷里日光で恋人と同棲結婚をしようとしたが、女の父が許さぬので憤慨。女の父親を撲殺し、昭和8(1933)年2月、控訴院で懲役15年の刑を受け、恩赦による減刑で最近出所したものである」。
この記事には誤りが多い。起訴状や内村祐之・東大教授(松澤病院長)が行った精神鑑定=「稀有なる凌辱殺人事件の精神鑑定記録―小平義雄の犯罪」(「人間研究」1950年1月号所収)、1948年2月の控訴審判決などを突き合わせると、彼の半生はこう描かれる。
1905年1月、栃木県上都賀郡日光町(現日光市)で、一時は村一番の商人宿だった家の6番目の子ども、三男として出生。父親は「飲む打つ買う」が盛んで、やがて財産を失い、家業は傾いた。
小平は尋常小学校に入学したが、成績は悪く、卒業時は23人中21番。卒業後は、東京で鋼材会社の見習工や食料品店店員、地元・足尾銅山の古河精銅所工員など職場を転々とした後、1923年、18歳の時に志願して海軍に入隊。
横須賀海兵団で訓練を受け、機関兵として戦艦や潜水艦に乗り組み、海外への遠洋航海にも加わった。日本軍が中国に進出した山東出兵(1927年)、済南事件(1928年)にも海軍陸戦隊員として出動。1929年、戦功を認められて勲八等旭日章をもらい、三等機関兵曹となって除隊した。
この約6年間の海軍生活で主に兵隊相手の女性と交渉を重ねたほか、軍の力を背景にした暴力の体験がのちの犯行の要因になったとされる。