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親戚の娘を妊娠させる、妻には復縁を迫りバールで…

 兵役を終えて精鋼所に復職。親戚の娘を妊娠、出産させて問題になったが、1932年1月、職場の上司のめいと見合い結婚した。しかし、妻の家では出産のことを知り、妻は半年足らずで実家に帰った。復縁を迫って断られた小平は同年7月、事件を起こす。7月3日付朝日にはその記事が載っている。

小平が元妻一家を襲ったことを報じた朝日

栃木に狂暴漢 八名を鈍器で撲(なぐ)る

 

【宇都宮電話】2日午前2時ごろ、栃木県上都賀郡東大芦村(現鹿沼市)の神職・宮本織蔵(64)方で、織蔵の五女てるの前夫である日光町大字細尾の無職・小平義雄(28)が長さ2尺5寸(約75センチ)の金テコ(バール)をもって同家十二畳の室に就寝中の織蔵に瀕死の重傷、同妻(64)に3週間、てるに2週間、孫(9)に2週間、さらに八畳間に就寝中の長男に2週間、四女に4週間、同六畳の間にいた次男に5週間、及び同家に泊まっていた男性に3週間、都合8人のいずれも頭部に重傷を負わせ、騒ぎを聞きつけ、駆け付けた近所の人に取り押さえられた。原因は、義雄が日光製銅所を先月解雇され、離縁になっていたので、てるとの復縁をたびたび申し込んだが聞き入れられないので、右の始末に及んだもの。

 普段はおとなしいが、いったん興奮すると抑えが利かなくなって暴力を振るう、というのは、海軍時代よりもっとさかのぼって子どものころからの性癖だったようだ。

 下された刑は懲役15年だったが、国家の慶事による2度の恩赦で刑期は短縮。1940年9月、事件から8年余りで仮出獄を果たした。機関兵の経験を生かし、ボイラーマンとしていくつかの工場を転々。太平洋戦争勃発を挟む時期には飛行場建設要員としてサイパンに渡ったことも。1943年8月には海軍第1衣糧廠のボイラー係に。

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 1944年2月結婚。1945年2月、長男が生まれた。空襲が激しくなって妻子を妻の郷里の富山に疎開させ、自分も後から衣糧廠を退職して疎開。敗戦後、再び上京して渋谷の近くに住み、妻子を迎えて、1946年3月には、新聞広告に応募して芝高浜町の海軍経理学校跡にあったアメリカ軍のランドリー兵舎(洗濯工場)で働くようになった。ここで逮捕の日を迎えた。

拡大していく事件

 8月30日付朝刊各紙は事件の拡大を伝えた。「さらに少女殺し自白 娘殺しの小平」が見出しの朝日の記事は――。

「先に迷宮入り事件とされていた品川駅付近の古自動車下で発見された少女絞殺の下手人であることも自白。殺人前科1犯とはいいながら、一見紳士ふうの小平が恐ろしい殺人鬼だったことが判明した。さる6月13日午後3時ごろ、芝区高浜町7、芝運送株式会社古自動車置き場の焼けたトラック下に、ネッカチーフで二重に首を絞め殺されている15、6歳の女学生ふうの死体について警視庁で調査したところ、江戸川区平井町、阿部敬次郎さん次女、平井第三国民学校高等科2年生(14)と分かったが、犯人は全く分からなかった」

「死の抵抗」によれば、事件主任の金原警部が被害者の身元捜査をしている時、頭にひらめいたものがあった。それがこの少女絞殺事件だった。金原警部が担当し、芝山内の事件が起きるまで六十数日間、捜査に専念したが解決できなかった。ところが、次のように、芝山内の犯行と殺害手口がよく似ていることに気づいた。

1)    暴行されている
2)    絞殺方法が同一
3)    殺害後、野外で比較的人目につきやすい場所へ運んでいる
4)    解剖結果から、いずれも食物を与えられている

刑事部屋でデカたちと語る小平(中央)。ごく平凡な男に見える(「画報現代史第2集 戦後の世界と日本」より)

 さらに決定的だったのは、小平の勤務先のランドリー兵舎が犯行現場のすぐ近くであることだった。しかし、取り調べ段階では犯行を認めた小平は公判では一転して否認。判決でもこの事件では無罪とされた。