「インテリ女性失踪 乗車券買ひに出てから一年 小平か?取調を進む」。9月21日付朝日は横浜市神奈川区の22歳女性が1945年7月12日に兄の疎開先に向かう乗車券を渋谷駅に買いに出たまま消息を絶ったのを小平の犯行かと取り上げた。
9月26日付読売は「人妻失踪一年」という記事を載せた。夫が応召中の30歳女性が埼玉県の実家から外出したまま行方不明になった。女性は栃木県上都賀郡今市町(現日光市)への転居のため東武電車で行き来していたことから「日光署では、殺人鬼小平が当時東武電車で度々日光に行っていたことや、女性が美人で年より若く見えて、家を探すため車中などで誰彼なくその話を持ち掛けていた点などから、あるいは小平の犠牲になったのではないかと捜査を始めた」とした。この推測は当たった。小平はこの2件を自供した。
「同じような死体を解剖したことがある」という通報
9月28日付朝日が伝えた「小平、五人目を自白 品川防空壕の迷宮入りも彼」は、一連の暴行殺人の最初の事件だった。
「殺人鬼小平義雄(42)の毒手は空襲のさなかの1年4カ月前にも20歳の女性を犠牲にしていたことが判明した。5人目の殺人は品川区大井海岸町2497、第一海軍衣糧廠第一寄宿舎止宿、同廠理事生(20)」
同寄宿舎には、軍用衣服縫製のため、各地から学生ら若い女性が集められていた。1945年7月4日、寄宿舎で盗難事件が起きたことから、寮長らが海岸の防空壕内に腐乱した裸の死体を発見。行方不明になっていた生徒と判明。憲兵隊が調べたが、犯人不明のままになっていた。
ところが、芝山内の事件が伝えられた8月末、中舘久平・慶応大法医学教室教授から「同じような死体を解剖したことがある」という通報が捜査本部にあったという。記事は続く。
被害者は(昭和)19(1944)年11月、同寮倉庫係として就職後、20(1945)年4月には、衣糧廠の疎開とともに長野県上伊那郡へ転出したが、盲腸手術のため上京。当時寮のボイラー係として勤めていた小平と同じ寮に住んだのが不幸のもと。毒牙にかかった5月26日(25日の誤り)、被害者は退院後の養生に母の疎開先、長野県に行く準備中、たまたま昼食のお湯をもらいに小平の機関室に行ったのが運の尽き。小平は食事後、自室十畳の間に帰った被害者の後を追い、昼日中、一時疎開後、人のいないのを幸い、例のごとく凶悪な殺人鬼と化し、反抗するので殴りつけ、暴行、扼殺のうえ、死体は直ちに防空壕まで抱えて行き、さらに荒縄で絞めてから着衣一切を海に放り込んで犯跡をくらまし……。
時代とはいえ、興味本位という以上に、面白がっているような感じを記事から受けるのは私だけだろうか。