「実は11人やったそうじゃないか」「いや、これだけです」
10月3日付朝日は、拘置中の小平がAP通信特派員のインタビューを受け「良心の呵責に耐えられない。死の覚悟はできています」と語ったことを報じた。その中で小平は「『実は11人やったそうじゃないか』と聞かれると『いや、これだけです』と両手の指を皆開いて見せた」。
「小平取調帳に浮かぶ 被害者は十二名」(10月2日付朝日)、「日光在の二女殺し 小平、遂に八人まで自白」(10月6日付読売)などの報道もあったが、捜査本部は10月25日、小平の取り調べを終了。警視庁捜査一課長は「10件は傍証が固まり、絶対動かない」と述べた(10月26日付朝日)。
同日付毎日は「人獣の世界 小平ざんげ」と題して小平が拘置中、鉛筆とザラ紙の持ち込みを認められて書いた30枚の手記の抜粋を掲載した。要旨は
1) 10人以外に1945年5月ごろから30人の女性を暴行した
2) いずれも買い出しや、安く品物が買えるからと連れ出した
3) 私が狙った女は一人として失敗したことがない。女はきちんとした身なりと優しい口をきけば大抵信用するもので、大抵やすやすついてきた
4) 暴行した女を殺さなかったのは、人目につく恐れがあったこともあるが、大部分が私の言うことを聞いたからだ
5) 10人も殺したのは、いずれも抵抗したから。最初の衣糧廠の場合は面識があったからだ。それ以後は殺すことにある程の興味もあったような気がしないでもない。
最後に「被害者の肉親におわびの言葉がなく、ひたすら亡き魂の冥福を祈るしかない」と書いている。
同年12月27日起訴。当時はまだ旧刑事訴訟法時代で通常は予審が行われたが、翌年、新憲法と同時に新刑訴法も施行されるのを先取りする形で、予審を通さず、直接東京地裁に公判が請求された。本人の自供が固く立証に問題がないと判断されたためだろう。
初公判は1947年3月3日、東京刑事地裁で開かれた。「早朝から男女学生や傍聴者たちが押しかけ、開廷1時間半前、早くも350枚の傍聴券は出尽くして超満員」「定刻、被告小平は黒サージ背広に紺のオーバーで深く編み笠をかぶり、新聞、映画班のフラッシュの中をくぐりつつ入廷。被告席に編み笠をぬいで無造作に着席する」(3月4日付朝日)。
裁判長の尋問には素直に答え「一つの“諦め”を持っているかのように神妙に応答していた」。だが2回以降の公判では、10件の起訴事実のうち、芝山内の白骨死体と芝高浜町の自動車置き場の遺体、それに、戦災に遭った渋谷東急百貨店別館地下室で見つかった遺体の計3件については「覚えがありません」と否認した。