「強い性欲と残虐性と道徳的感受性の低下」
小平の精神鑑定書は、犯罪事実に続いて家系調査の結果を図表とともに掲載。「精神病学的負因を有する者は甚だ多く、ことに同胞(兄弟姉妹)と父系において著しい」とした。小平の父親は普段は温和だが、酔うと乱暴することがしばしば。鑑定書は「性格異常者と思われる」としている。
小平の尋常小時代の「操行」(普段の行い)は6年通して「丙」(当時は「甲」「乙」「丙」「丁」の評価)。各学年の査定評価を見るとすさまじい。
1年 不注意、不熱心、無精にしてけんかせざるの日なし
2年 学用品を時々忘れてくる
3年 不注意にして不熱心なれば成績不良なり
4年 性悪く鈍なり。学科に不熱心にして、かつ品行よろしからず
5年 前学年に同じ
6年 粗野にして乱暴。奸智にたけ盲動す。成績不良
まず見るべきところがなく、教師がさじを投げているのが分かる。低学年の時はいつも鼻汁を垂らしてそれを始末せず、教師が注意しても直さない。行儀が悪く落ち着かず、時には同級生に暴力を振るうなど、何度も訓戒を受けている。
特に5年生の時には、棒で友達を殴ったり追いかけまわしたりするなどの乱暴をして立たされた。6年生の時には、同級生が死亡したとウソを言って祖母から1銭をだまし取ったことが発覚。教師は「最も強硬なる態度をもって意見を加えたり」と記述している。乱暴なうえ“ウソつき”でもあったということか。
「小学校時代から、わしは乱暴者で、切り出し(ナイフ)でけんか相手の顔を刺したことがあります」「わしは血を見なければすまないたちなんです。最近まで常に匕首(あいくち)を持っていました」。鑑定医に対してこう答えている。鑑定書は「小平の知能は正常域の中位の下に属する」とし「性格的には情緒が激しやすく、些細の事柄に不機嫌となって暴行する一面、強い性欲と残虐性と道徳的感受性の低下とが著しい」と判定した。
「酒もたしなまず、趣味もなく、衝動生活は性欲一本に集中されて…」
問題の性的志向について、本人は「女を知ったのは海軍に入ってから」と言っている。最初は横須賀の兵隊相手の女性で、19歳か20歳の時だったという。
「上海にいた時も月に2、3回は遊びに行きました」。さらに続けて告白している。「上海事変当時、太沽では強姦のちょっとすごいことをやりました。仲間4、5人で支那人の民家へ行って父親を縛り上げて、戸棚の中に入れちまって、姑娘を出せと言って出させます。それから関係して真珠を取ってきてしまうんです。強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ」。戦争が残虐をあおり、小平の性的な暴力性に火をつけたといえるだろうか。
鑑定医が「さまざまなる性的技巧を自分の体と手を用いてやって見せる。実に好色のように見える」と書いた点は小平のありのままの姿だろう。職場でも女好きは有名で、本名になぞらえて「助平(すけだいら)」と陰で呼ばれていた。
小平は言っている。「(殺した後に)死体を見ると、むごいことをしたという気持ちで、いつもさっさと逃げてきました」「しかし、二度三度とやっているうちに習慣になってしまいました。だんだん平気な気持ちになってきたのです。ばれなければ、まだやったかもしれません」。
「酒もたしなまず、映画などの趣味もなく、収入の多くを買淫に費し、乏しい食糧までを女性の歓心を得ようがために使っていた小平の衝動生活は、性欲一本に集中されて、しかもその程度の甚だ高いものであった。そして彼は、性的快感を高めるべき新しい刺激として、新しい女性を絶えず求めていた」と鑑定書は書く。
そして小平は、女性を誘うのに「敗戦後の買い出しを利用したのです。刑務所にいた時、囚人たちが物質によって男色をやっているのを見ました。それで物質の偉力を痛感したのです」と述べている。「みんな物欲しさについてきたのです。日本の食糧事情がそうさせたんですよ。わずかの食糧のために、やがて私に殺されるとも知らず、山の中をついてきたんですからね」とも。