2日で100万人の都民が買い出しに出かけた時代
当時の買い出しのすさまじさもいまからは想像もつかない。食糧難のどん底にあった都会の住民はまだゆとりのある農村地帯へ一斉に買い出しに行った。持って行った洋服や着物と食糧を物々交換する。そのうち、買い出しで得たコメやイモなどを闇市に流す闇屋も増えてきた。政府の統制は厳しく、取り締まりに当たった警察は違反のコメなどをどしどし摘発した。
東京の事情について上野昂志「戦後60年」は書いている。
「その行き先は、東京でいえば武蔵野線(現・西武池袋線)や東武線、東上線、京成線、あるいは省線(国鉄=現JR)などを利用しての埼玉や千葉や神奈川などの近県であったが、たとえば、1945年の11月2日、3日だけで100万人の都民が買い出しに出かけたということだけでも、その多さが想像できよう」
「買い出し」客の9割が違反…食糧難の“日常風景”
1946年8月1日付朝日2面トップには「乗客の九割が違反 政治の貧困に車窓から怒聲(声)」が見出しの「『白米列車』便乗記」が載っている。コメどころの東北地方を縦断する列車にはコメや麦、ジャガイモが大量に持ち込まれ、それが警察に摘発され、無償没収される“悲劇”が繰り返されていた。記事本文は――。
秋田発上野行き404列車がある日の午後9時52分、山形駅に滑り込んだ。「その筋のお達しにより全員降車を願います」。ホームのマイクが幾回も意外な放送を繰り返す。「荷物を全部持って早く降りるんだ」。警官がざわめく車内に怒鳴る。「上り」には最も便利なこの列車で没収白米72俵(約4320キロ)という記録を出したこともあるだけに、当局にはこの列車こそ目の敵。この晩も73名の警官がピストルで武装。要所を固めた。乗客をホームに6列縦隊に並ばせる。食糧営団の腕章をつけた男が大きな麻袋をいくつも広げて検問官の脇に立つ。約2000名の客が持てるだけの荷物を持っている。
窓から便所から洗面所から、人間の体ほどの荷物が放り出される。逃げ出そうとして取り押さえられる乗客。現場は修羅場と化した。
10人のうち9人は違反組。検問官のすきを見てリレー式に荷を窓から運び込むところを捕らえられ、大立ち回りする者もいた。暴利目当ての3人組だ。2升(約3キロ)までは親心で黙認されたが、「別に升で計るわけでなし。客はお気の毒でさ!」と、5月からコメの顔を見たこともないという大阪の二等客が不平乱発。「ただで取り上げるのはずいぶんひどい!」。2つになる赤ちゃんを背に6つの子どもを膝におろおろと泣き崩れている東京都世田谷区のみすぼらしい婦人。寄席の下足番をしている主人の薄給から1升(約1.5キロ)65円(現在の約2600円)の秋田米を5日がかり、しかも2晩は満員列車に寝て買ってきたのだという。移出証明のあるものは許されたが、最高は1人で2斗8升(約42キロ)も持っているなど、この晩の無償没収は約6俵半(約390キロ)。かくて無法越境ものを払いのけ、身軽になった列車は約40分も遅れて発車した。
こうした光景が日常茶飯事だった時代。小平の「甘言」がどれほど有効だったか――。
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生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。
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