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「おかしいやろ。ワシらに人権はないんか」ドキュメンタリー番組の撮影で直面した“ヤクザのリアル”

『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』より #1

2021/08/21
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漂流社員の流れ着いた先

「ほらね。やっぱり。そうなんですよ。そう、そうなんですよ、ね」

 新幹線改札に乗車券を取りに戻る私に、彼は、まわりが驚くくらいさらに大きな声で、嬉しそうに言い続けた。私は思った。ヤクザの取材には、このぐらいの勢いが必要なのかもしれない、と。

「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」

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 ポール・ゴーギャンがタヒチで描いた絵画の題名だ。いろいろなことを考えさせる言葉だ。「我々」を、その時々の取材対象に置き換えたりする。たとえば、「ヤクザはどこに行くのか」と。そうしているうちに、ゴーギャンの問いの答えに近づけるだろうか……。

『ヤクザと憲法』。取材したいと言い出したのは、圡方宏史、当時38歳。報道歴5年の記者だった。

 兄と同じテレビ局員になろうと就職試験を受け、東海テレビに入社した。圡方は、昼の連続ドラマを担当する東京制作部に配属され、テレビマンの道を歩みはじめた。

 昼ドラ(別名THKドラマ)は、月曜から金曜までの午後1時半からの30分枠で、1九六四年にフジテレビ系全国ネットで放送が始まった。前回の東京オリンピックの開催を控え、仕事が過重になった東京キー局が系列局に企画募集して始まったという伝統の枠だ。ドラマ制作の現場には、社内から選抜されたスタッフが配置されてきた。

 圡方は、新入社員で抜擢されたのだから、大いに期待された船出だった。しかし、1年で、ドラマ班から本社の制作部へと異動。そして、報道部へ転属となったのは、33歳だった。知らないうちに漂流社員になっていたようだ。

 報道部では、催事モノから事件・事故、被疑者の顔写真探しまでニュースの遊軍記者として何でもしていた。そして、時折、自分の持ちネタを形にしていたが、その中にドキュメンタリー『ホームレス理事長~退学球児再生計画~』(2014)につながる企画があった。