「除霊」に共通のマニュアルはない
「香を焚きしめて、蠟燭に火をともし、洒水や太鼓の音、曼荼羅、お経、これらが人間の深層部分に作用して化学反応を起こし、ひとつの方向に向かっていくんじゃないでしょうか。ただし、同じ文化を共有していないと通用しないかもしれません。地域限定です」
金田住職は笑った。
もっとも、これは金田住職の「除霊」であって、「除霊」に共通のマニュアルなどはない。ときには師匠から弟子への口伝であったりするから、寺によっても違うそうだ。金田住職の場合はというと、
「父親がやっていたのを覚えていて、見よう見まねでやりました」。
「除霊」というので、祈禱のような儀式で霊を祓うのかと思っていたのだが、僧が死者の霊と対話しながら説得によって成仏させる、あるいは祀り上げるという、きわめて人間臭い方法だったのが意外だった。聞いている僕の認識から、「あの世」と「この世」の境目が消えていくような錯覚を覚える。
「絶対に死なせたくない」という思い
儀式が終わって憑依が解けたとき、彼女の中から本当に霊は消えたのだろうか。意外にも金田住職はこんなふうに言った。
「霊の存在云々はどうでもいい話なんです。あるといえばあるし、ないといえばない。証明できるものではありません。あくまでその人の中での出来事なんです。だからとりあえず全部肯定します。その上で、それがその人にとってどういう意味を持つか。ここに来るまでの彼女は死にたいという意思表示をしていました。これは駄目です。絶対に死なせたくない、というのがあの儀式だったのです」
僕はその言葉を聞いてなぜかほっとした。
こうした話は、東北の寺を歩けばどこかで聞くはずである。古い寺の住職なら、数年に一度くらいは「除霊」に関わっていても不思議ではないと金田住職は言う。それぞれの寺でそれぞれの僧侶が、はるか昔から、頼まれては憑いた霊を祓ってきたのかもしれない。霊魂が存在するかどうかは別として、「除霊」という儀式は、少なくとも東北という文化圏の中で陰の文化として密やかに続いてきたのだろう。
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