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一番“何か”を感じたチビチリガマ

 レンタバイクで一人、防空壕を巡った。僕はまだ戦争をよく知らない。だから防空壕を巡ることで無理矢理知ろうとしてみた。

 元々沖縄本島には約2000もの「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞があり、戦時中はそれら自然洞窟を改造して特殊地下壕、いわゆる防空壕として利用していたのだ。

 轟壕、陸軍病院山城本部壕、伊原第一外科壕、伊原第三外科壕(ひめゆりの塔)、チビチリガマ……。

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 この時、ひめゆりの塔が防空壕であるということを改めて理解した。一人で行くことで説明書や案内板をじっくりと読むことができたからだ。

チビチリガマには物悲しい顔をした野仏が点在していた ©松原タニシ

 中でも一番“何か”を感じたのはチビチリガマだった。チビチリガマの入口には物悲しい顔をした野仏があちこちに点在している。そしてこれ以上先への侵入を拒む看板には、

〈ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様が、ガマにはいって私達の肉親を踏み潰していることを私達は、我慢できません〉

 と書かれている。

終戦から38年経って明らかになった“真相”

 チビチリガマは集団自決があった場所だ。しかも約半数が12歳以下の子供だった。読谷に米兵が上陸し、パニック状態に陥った避難者たちはそれぞれの肉親同士で命を奪い合わざるを得なくなる。しかもこの真相が明らかになったのが1983年。終戦から38年間、生き延びた人たちは誰もチビチリガマについて口を開かなかったのだ。

 それから時が経ち記憶にまだ新しい2017年、チビチリガマの歴史を知らない少年らの「きもだめし」によって内部が荒らされる事件が勃発する。

チビチリガマに置かれていた看板 ©松原タニシ

 実はこのチビチリガマに点在する物悲しい顔の野仏は、その後遺族らと共に少年たちが製作したものだった。それは残酷な歴史のメッセージであり、悲しみを繰り返さないための固い決意でもあったのだ。

 こうして僕は死者が遺したもの、そして遺された人たちの想いを知ることになった。