私が弁護士さんたちだけに唯一言える事、そして他には云えない事があります。それは「真実を話せば、それは真実では無くなる」という事です。私は本当に頑固で、ゆうずうの利かない人間です。しかし、私が選んだ道は、私が選んだモノであり、矯正教育が成功した、しなかったというものではありません。(中略)
内山新吾様 平成17年12月29日
山地悠紀夫〉
山地が書いた「時間」という詩
12月5日の逮捕の24日後に、山地は内山さんへ手紙を出した。そこで彼が語る「警告音」がなんであったかについては、その後も語られることはなかった。ただ、卒業アルバムのなかにある山地が書いた「時間」という詩は読むことができた。
〈1人り1日なにもしなくても
時間はやすまずうごいている
1日いろいろなことをしていると
時間はやくすすんでいる
時間がとまったら
どうなるのだろう〉
06年5月1日に山地の初公判が大阪地裁で開かれ、それから12月13日の判決公判までに13回の審理が行われた。山地は審理の途中から「わかりません」「憶えていません」「黙秘します」と口にすることが増え、傍目にも心を閉ざしていることは明らかだった。内山さんは判決公判を前にした11月27日、大阪拘置所へ出向いて山地と接見しようとした。しかし、本人から「面会拒否」との対応を受ける。
君は、大切な人間です
〈ああ、山地君は、死のうとしているんだな、と思いました。(中略)
私は、山地君に、死んでほしくありません。(中略)
山地君は、いま、「自分はどうなってもいい」と思っていませんか。
でも私には、山地君がどうなってもいい、とはどうしても思えません。
どうか生きることを考えて下さい。亡くなった人へのつぐないも、生きて苦しんでこそ、できるのではありませんか。君は、まだ、お母さんへのつぐないも、すんでいないのではありませんか。(中略)
君は、大切な人間です〉
内山さんは12月9日にまずこの手紙を出し、続いて山地に死刑判決が下ったあとの12月17日にも〈今度、面会に行ったら、会ってもらえませんか〉と記した手紙を書いた。しかしその直後、山地から手紙が届いた。全文を記す。