「では、もうひとつは?」
「そうね、ボランティア活動について聞かれることが多いからね、やっぱり。それで、僕も私も被災地にボランティア行こうかなーって思ってくれる人が一人でも増えたり、風化してく東日本大震災を思い出してくれたらいいよね」
私が取材に訪れたのは、ヨシキ君発見から1か月ほど経っていたので、だいぶ騒ぎが落ち着いていた時期ではあった。それでも地元のテレビ局に「こんな事件があったので、新聞の記事を読んでるシーンを撮りたい」とポーズを要求されることもあれば、突然やって来た東京のメディアに「温泉に入る映像が欲しい」と言われ、「はいはい、いいですよ」と、その日の予定を変えて別府の温泉に向かうこともあった。
食事中でも「一緒に写真を撮って」と……
押し寄せたのはメディアだけではない。尾畠さんの自宅に電話をかけて自分の悩みを相談する人もいれば、家に色紙をもって突然、サインを頼みに訪ねてくる人もいた。真夜中の2時にいきなり縁側からリビングの窓ガラスをノックする人もいたそうで、「昨夜は大変だった」と眠そうな顔をする。「家にいては落ち着かないから」と外のファミレスに行けば、食事中でも「一緒に写真を撮って」と見知らぬ女性客が席から尾畠さんを連れていってしまい、料理はどんどん冷めていく。
あまりにも人が来るので、「姉さん、明日は朝早く山の整備に行こうよ」と、誰も来ないうちに出かけることもあったが、山の中でも同じだった。
その年の秋の終わりに、私と尾畠さんとで百名山のひとつである大分と宮崎の県境にある祖母山に登っていた時のことだ。台風で折れた枝が道を塞ぎ、危ないので折ったり端によけながら整備しつつ、二人で登っていくと、山頂近くでどこかの山岳会の一行とすれ違った。すると70歳くらいのリーダーの男性が出合い頭、「あっ、尾畠さんだ! あんたの奥さん、本当はどこにいるの?」と無遠慮に大きな声で聞いてきた。
ワッ、と一行は笑いに包まれる。「旅に出ています」と返した尾畠さんが、カチンときているのが遠目にも分かる。仲が良く自分から話すならともかく、初対面の人には聞かれたり教えたりしたくないだろう。リーダーの男性は「テレビではそう言ってたけど、本当はどうしているの?」と、食い下がる。仲間も止めず、ただニヤニヤと見ているだけだ。