整形は個性を消してしまう
希林さんは、整形そのものを否定していたわけではない。「役者が整形すること」に反対していただけだ。主婦でも美魔女でも、役者でないのであれば、各々の価値基準にしたがって、いくらでも顔や体をいじればいい。
だけど、様々な人間を、様々な人生を演じる役者を生業とするならば、「整形はよくない」と、何度も話していた。過度なエイジング対策と同様に、整形という手段で綺麗な顔や若さを作りこむと、その人なりの個性が消えてしまうからだ。
「整形したら、整形した人の役しかできなくなっちゃうよね。市井を生きている人を演じても、嘘っぽくなってしまうじゃない。この仕事をしながらも、その役を生きることよりも、自分が美しく見られたいから整形するだなんて。私にはさっぱり理解できないよ」
そういえば、希林さんは、女優という言葉に苦手意識があり、そう呼ばれるのを嫌がった。役者であることに拘わっていた。
私も女優という言葉は苦手だ。他人にそう呼ばれる分には、気恥ずかしさがこみ上げる程度だけれど、自分では絶対に名乗らない。
「だって、女優って“優れた女”って書くんだよ。恥ずかしいよねぇ」
そんな風に希林さんに打ち明けたことがある。とはいえ、役者というプロフェッショナルな職人のような意味合いが感じられる肩書きも、希林さんにはぴったりだけど、私にはまだ早いような気がして、思わず職業欄には、自営業などと書いてしまうのだ。
小さな憂鬱の種
ところで、そもそも“優れた女”とは何だろう? 優れた女は、年齢を重ねても若く美しくあらねばならないものなのか。かつては私も、1人の女性としては老いるのが怖かった。
鏡を見るたびに、小さな憂鬱の種が増えていったのは、おそらく、50歳を過ぎた頃だ。老いることに現実味が増して、急に怖くなった。
28歳で離婚してからは、気ままに一人暮らしを楽しみながら仕事と恋愛に夢中だった。そのせいか、40代までは自分が年齢を重ねているという実感が今ひとつもてなかったのだ。
もちろん、20代よりも30代、30代よりも40代は体力も気力も目減りしていたし、あれほど私の世界の中心にあった“恋愛”に対する興味は、40代も半ばをすぎると、急速に萎んでいった。それでも、老いていることまでは実感できず、まだその先の坂を走り続けられると思っていたのだ。
しかし、流石に、それが浦島太郎のような夢物語であることに気づく。確実に時は流れ続けているし、肉体は少しずつ朽くちていくということが、この肌にも髪にも自らがまとう空気にも現れてくる。
自分の恋愛への欲求が薄れているだけでなく、「50を超えた女」というと、もはや、相手からも求められないような気がして落ち込んだ。これまで使っていた化粧品を変えるべきだろうか、もっと似合う洋服はないだろうか、結婚したいというわけではないけれど、この先も生涯ひとりで生きていけるのだろうか......。