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新作映画と古典的名作では「打率」が違う

 2019年に日本で公開された映画は邦画と洋画を合わせて1278本に上ります。これは過去最多の本数です。劇場公開を終えた作品は一定期間が経過したのちにソフト化され、配信サービスのラインナップに加えられるのが常ですので、視聴可能な映画の数は必然的に増加の一途をたどっていくことになります。

 ほとんど無限とも思えるほどの大量の映画作品を前にして、どうやって今日これから見る一本を選んだらいいか。そこで、古典なのです。

 日本映画の黄金時代と呼ばれる1950年代には、国内で毎年数百本(約200~500本)の劇映画が製作されていました。たとえば、1955年に日本で製作された劇映画は423本ありますが、このなかで古典として今日まで生き延びているのは成瀬巳喜男の『浮雲』くらいでしょう。

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「古典として生き延びている」という状況をどう定義するのかは難しい問題です。ここではざっくりと「熱心な映画ファン以外でもタイトルを知っており、現在に至るまで一定数の人が繰り返し鑑賞し続けている作品」としておきましょう。

 この定義に照らすと、成瀬の『浮雲』でさえ条件を満たしているかどうか怪しくなりますが(成瀬巳喜男の名前や『浮雲』というタイトルが国民的認知を得ているとはとても思えません)、50年代の日本で撮られた最重要作品の一つなのでそこは目を瞑ることにします。

 つまり、ここで言いたいのは、時のふるいにかけることで423本という大量の作品のなかから「まず見るべき一本」を絞り込めるということです。

 もちろん、一般には知られていなくとも隠れた名作とされる映画はいくらでもありますし、世間や批評家の評価が絶対というわけでもありません。

 ですが、新作映画のなかから一本を見るのと、半世紀以上の時を超えて現代に伝わっている一本を見るのとでは、単純に「打率」が違ってきます。つまり「ハズレを引く可能性が低い」「コスパがよい」ということです(もう少しオブラートに包んだ言い方をすれば「じっくり鑑賞するだけの価値のある作品に出会える確率が高い」ということになるでしょうか)。

古典的名作で深められる、「2つの教養」

 たとえつまらなく感じたとしても、時の試練に耐えた作品にはそれだけの理由があるので、必ず何かしら得るものがあるはずです。

 たとえば、過去の名作を見たこと自体が教養を深めることにつながります。この場合の教養には、一般社会で通用するものと、その後の映画鑑賞に役立つものとの大きく二種類が考えられます。

 黒澤明や小津安二郎の映画を見たことがあれば、日常的な会話はもちろん、国内外のビジネスの現場で効果的にそれらを話題にできる可能性が高まります。また、のちの監督たちに多大な影響を与えており、リメイク作も数多く作られているので、そのつながりを意識しながらほかの作品を見られるようになります。

 ですから、同じ二時間を過ごすのであれば、古典的名作を見るほうが断然お得な経験なのです。