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2021/09/28

source : 文春新書

genre : ライフ, 読書, 歴史, ライフスタイル

 すなわち「銀座煉瓦街」はかならずしも銀座史の名誉とばかりは言いきれないのだが、そうなると、つぎの疑問は、そもそも銀座をこんな目に遭わせたのは誰かということ。 

 ややスキャンダラスに言いかえるなら、誰が銀座を殺したか。

 結論から言うと、その犯人は大阪だった。

徳川幕府の銀貨鋳造所「銀座を奪われた銀座」

 あの明治5年の火事をさらにさかのぼれば、銀座には元来、徳川幕府の銀貨鋳造所があった。この鋳造所の名がすなわち「銀座」、こんにちの地名の由来であることは人も知るとおりだが、よく考えてみれば、貨幣の鋳造とはたいへんな人間のいとなみである。金属をとかし、打ち延ばし、偽造防止の印刻をほどこす総合理工学プラントを運用しつつ、しかも国家の金融政策に即応する。

銀座通/「旅の家つと. 第29 都の巻」国立国会図書館デジタルコレクションより

 その場所はそうそう引っ越しできはしないし、また、してはいけないのだ。実際、おそらく維新時も、

─鋳造所は、ひきつづき、銀座跡へ設けよう。

 という案もあったのではないか。だが結局のところ新政府は、明治2年(1869)というびっくりするほど早い段階で、それを大阪に設けることを決めた。

 何とまあ500キロメートルも離れたところへ移したのだ。銀座は銀座を奪われた。新天地は幕府の材木置場跡。これがつまり造幣寮(現在の造幣局)である。そこでの「桜の通り抜け」がこんにち大阪の春の風物詩であることは、少なくとも大阪人には有名である。

首都は江戸へ

 なぜこんなことになったのか。それはおそらく、日本の首都と関係がある。日本の首都は、

─浪華(なにわ)に置くべし。

 というのは、じつは維新直後というか直前というか、あの幕府相手の鳥羽伏見の戦いに勝った時点でもう新政府内の有力な案だった。

 ことに大久保利通が強硬に主張した。理由の詳細ははぶくけれども、大久保は大阪が好きだったというより、京都だけは嫌だったのだろう。なぜなら天子のまします御所のまわりには無駄と迷信と自尊心にみちみちた公卿どもが幅をきかせていて、そのとりなしに大久保はたいへん苦労していたからである。これから西洋諸国を追いかけよう、政治も経済も社会制度も一新しようという門出のときにこういう王朝の亡霊に足をぐいぐい引っぱられるのは、大久保には忍耐しがたいことだった。

 ところがその後、江戸が無血開城と決定する。江戸は火の海になると思いきや、どうも無傷で残るらしいのである。となると、

─首都は、江戸へ。

 この論が、たちまち新政府内の主流になった。大久保も考えをあらためたようである。

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