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第2回 なぜ「東京駅」は大正時代まで反対されたか

小さく見える、東京駅の赤煉瓦の駅舎

 東京駅ってなんて小さいんだろう、と思うことがある。

 もちろん現在のそれは1日あたりの列車発着本数が4100本という日本のまさしく大玄関なのであるが、しかしたとえば丸の内中央口から少し皇居のほうへ歩いたところで振り返ると、意外にも、赤煉瓦の駅舎はあっさり一望できてしまう。プロポーションが極端に横長であるにもかかわらずである。

 もともと人間の視野そのものが横長だからでもあるにちがいないが(テレビやPCのディスプレイの形状はこれに対応したもの)、それ以上の理由はたぶん、皇居にむかって建っていることだろう。皇居とくらべれば、どんな建物もまあ大きさを誇ることはできない。

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東京駅 ©️iStock.com

東京駅は「中央停車場」だった

 東京駅の開業は大正3年(1914)12月18日、いまから100年あまり前の冬であるが、設計者・辰野金吾はこの点ちょっと損をした。

 ところでこの東京駅、建設中はべつの名前だった。「中央停車場」。ここでの中央とは東京のまんなかというよりも、むしろ鉄道網の核心というような意味だっただろう。何しろ当時の路線図を見ると、まるで円形のバリアでも張ったかのごとく、そこだけぽっかりあいている。

 こんにちの路線名・駅名でいうなら東海道本線は新橋で、中央線は飯田橋で、東北本線は上野で、総武線は両国で、それぞれバリアに阻まれて内部へ入りこむことができない。

 だから乗客がたとえば大阪から青森へ行こうと思ったら、新橋ー上野間の路線がとだえる。市電かバスで移動しなければならない(現在の東京メトロ銀座線の開通は昭和9年〔1934〕)。なかなかの距離である上に、貨物はさらに面倒である。当時の鉄道には軍需物資をはこぶという、或る意味、人間をはこぶより重要な使命があった。

「中央停車場」という駅名は、まずまず理由があったのである。それが「東京駅」になった。正式に決定したのは大正3年12月5日付の鉄道院総裁達113号による、ということは開業のたった13日前。ぎりぎりもぎりぎり、看板などの用意は間に合ったのかと余計な心配もしてしまうほどだが、どちらにしろこの余裕のなさは、はしなくも、鉄道院内部でよほどの議論があったことを露呈してしまった。反対派がそうとう粘ったわけである。